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『猫トイレット荒神(文藝2010年秋号掲載)』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第49回。

 『人の道 御三神』完結からはや一年。いつになったら新作が読めるのか、じりじりしながら待っていた日々も、ついに報われるときがやってきました。笙野頼子さん、待望の「復帰第一作」(と本文中に書いてある)が『文藝』2010年秋号に掲載されたのです。

 『小説神変理層夢経・序 便所神受難品その前篇 猫トイレット荒神』というのが正式タイトル。

 まず『神変理層夢経』というのが本編となる小説のタイトルで、これは神、変、理、層、夢、経、という単語について「読者が持っている偏見、を洗い流すような小説」だそうで、「これからあっちこっちの文芸誌で続けてゆく」とのこと。期待が高まります。

 その序に当たるのが『便所神受難品』、さらにその前篇に当たるのが『猫トイレット荒神』というわけで、今回掲載されたのがこれです。第一章は荒神が、第二章は便所神が、それぞれテーマとなっています。第三章以降は後篇で。

 自分が金毘羅だと気づいたり、台所に道祖神が生えたり、海から八幡神が来たり、多忙な人生を送っている作者ですが、今作では家に荒神「若宮にに」(『人の道 御三神』の子供にしてシークレットキャラ。白黒猫の姿をとる。妙にかわいい)がやってきます。というか、作者より前から居ついていたのが姿を現します。

 まだ前篇を読んだだけなので全体像はよく分からないのですが、荒神とのやりとりを軸に、極私的神への祈りを通して歴史と自我を再定義してゆく小説のようです。

 「それで何を拝むか、自分を拝む。ただの自己崇拝か、違う、自分の中の、他者を拝む、それを神と呼ぶ、人間の個々の精神の中にある社会性を備えた魂を呼んで拝む。そんな荒神がいるから、もし猫が死んでもなんとかやっていける」

 泣けます。

 事実上休筆していた一年間に家族関係で色々とあったらしく、「五十半ばにしていきなり知る真相」、「自分がこれと信じて生きてきた自分自身の私小説的設定、出自、そんなものが結構嘘だった」、「普通の私小説作家だったら凄く深刻な事態のはずの自己定義喪失」というような表現が出てきて気にはなりますが(とっさに心配したのは『金毘羅』文庫版の出版が加筆修正のため遅れるのではないか、ということだったひどい私)、それはまあともかくとして、一人称がなぜか「あたし」になっているのが衝撃的。

 記憶にある限り、これまでの作品では(ごく初期の作品で「Y」を使用した他は)常に一人称は「私」だったと思うのですが、なぜにいきなり「あたし」なのか。ものすごく違和感があって、「あたし」という文字が出てくるたびに「誰?」と思ってしまいます。これ、前述の「自己定義喪失」と関係しているのでしょうか。それとも今までの「私」小説とは違うという宣言でしょうか。困惑しつつ後篇を待ちます。


タグ:笙野頼子
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