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『おへそはなぜ一生消えないか 人体の謎を解く』(武村政春) [読書(サイエンス)]

 人間の身体に関する身近な疑問を元に、「複製」というキーワードで人体メカニズムの秘密に迫るサイエンス本。出版は2010年2月です。

 「なぜ・・・なのか?」といった疑問文タイトルの新書は乱発気味なので少々うんざりしているのですが、本書のタイトルには意表を突かれました。おへそはなぜ一生消えないか。そんなこと、今まで一度も疑問に思ったことはなかったのに、そう言われてみると、何だかやたらと気になってくるのです。

 だって手術の跡だって次第に消えてゆくのに、なぜ出産時の痕跡であるはずのへそは消えない、むしろ成長してゆく(それは肥満のせい)、というのは確かに不思議です。

 本書の各章の表題はこんな感じの疑問になっています。「第1章 食べる口としゃべる口はなぜ別ではないのか」、「第2章 年をとるとなぜ傷が治りにくくなるのか」、「第3章 リ・ド・ヴォーはなぜ美味いのか」、「第4章 人の赤血球にはなぜ核がないのか」、「第5章 おへそはなぜ一生消えないのか」、「第6章 胎盤という器官はどう作られたか」。

 もっとも内容は分子生物学の話が中心で、かなり専門的で難しい話題になっています。全体を貫くテーマは「複製による多様性の獲得」というもので、各章の表題は話のマクラに過ぎないことが多く、疑問に真面目に答えてくれるとは限りません。

 第3章なんか最後のページになって「じゃあ、なぜリ・ド・ヴォーは美味いのかって? そういえば、この章はそんなタイトルだったのを、今思い出した」(p.95)と、とぼけて逃げてしまいますからね。

 けっこう面白い雑学があちこちに転がっているので、内容が把握できなくてもとりあえず読み続ける価値はあります。例えば、男性の乳首は役立たずだと思われているが、頑張って乳児に吸わせていたら、ちゃんとお乳が出てきたという複数事例がある(p8、p9)。

 「へそ」は哺乳類だけの特徴だと思われがちだが、メジロザメやシュモクザメの仲間は胎盤を持ち、出産時には「へそ」を持って生まれてくる。それどころか、およそ三億八千万年前の地層から見つかった板皮類の化石は、親子が臍緒(へその緒)で結ばれているのが発見された(p.132-p.134)。四億年近く前に「へその緒」という私たちと同じ身体パーツを持った生物がいたというのは驚き。まさに、緒パーツ。

 しかし、個人的に最も興味深かったのは、ヒトゲノムの構成を国会の議員総数になぞらえて視覚化するところ。新聞などでおなじみの、衆議院議員定数(本書では516名となっています)を扇形に配置して、過半数割れだの連立だのイメージで表示する、あの形式を用いて、人間のゲノム全体に占める遺伝子の“政党”の割合を表示するのです(p.151)。

 「遺伝子党」、つまり普通の意味でいう遺伝子は、何と議員総数516名のなかでわずか8名。少数派の極右政党に過ぎません。遺伝子が機能するための様々な調整に勤しんでいる「遺伝子会派」を含めても、右派政党は139名で、連立過半数どころか、座席表の右翼1/3程度を占めているだけです。

 では最大政党は何かというと、これが「トランスポゾン党」という左派政党で、総数は230名。ただし単独過半数には達してません。その他にマイクロサテライトなどの中立「諸派」が1/4ほどを占めています。

 トランスポゾンというのは、いわゆる「動く遺伝子」と呼ばれるもので、個体どころか種を超えてふらふら移動したり、ウイルスに乗っかって別の個体に紛れ込んだり、アナーキストというか、極左です。これが実はヒトゲノム最大勢力。でもトランスポゾンが何のためにいるのか、実のところ不明なのです。最大勢力が何をしているのか実は不明、というのも国会に似てますね。

 というわけで、副題の「人体の謎を解く」というのは嘘で、読めば人体そのものが今だ解けない謎に満ちていることが分かる一冊です。


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『ふたたび、時事ネタ』(斎藤美奈子) [読書(随筆)]

 文芸評論家、斎藤美奈子さんが、2007年から2009年にかけて、『婦人公論』、『DAYS JAPAN』で連載した時事コラムをまとめた一冊。2007年に出版された『たまには、時事ネタ』の続編です。単行本出版は2010年6月。

 納豆ダイエットやらせ事件から事業仕分けまで、政権交代をはさんだ三年間に世間を騒がせた事件やら社会問題、政治問題を斬る辛口コラム、というわけですが、書かれている内容はごく常識的なもので、視点も特に斬新なものではなく、新鮮さや驚きは感じられません。

 もちろん、まともな発想でまともなことを書いてはいかんという法はないし、というかむしろ良識的でよろしいのですが、ううむ。

 やはり面白いのは、世間で話題になった書籍や文章を実際に読んで批評する回です。例えば『ミシュランガイド東京2008』であれば、それで大騒ぎしている世相を論じるのではなく、実際に同書をじっくり読んでガイドブックとしての出来を評価するのです。(もちろん星ゼロ評価)

 同様に『広辞苑第六版』の話題であれば、実際に第六版を手に入れて読んでみます。まずは重さを計って(2Kg)、新語をチェック。イケメンを「いけ面」と表記していることを批判し(メンは男性の複数形の意味も入っているのではないか)、石原慎太郎『太陽の季節』の説明文をあげつらい、最後は「辞書にはそれぞれ性格がある。『広辞苑 第六版』の性格は、懸命に新しぶっても教養と刷り込みがじゃまをする、元左翼にしてインテリのオジサン」(単行本p.107)と総括。わはは。

 とりあげるニュースでも、「読書離れ」といった話題になると筆致が生き生きとしてきます。「今の若者は本を読まない」と嘆いてみせる中高年のオジサンたちに向かって「昔の中高生と現代の中高生にちがいがあるとしたら、昔は「見栄を張る」という文化があったことだろう。読んでなくても立派そうな書名をあげておく、とか」(単行本p.150)と痛烈な皮肉をかまします。

 というわけで、文章批評と読書の話題になると本領発揮するあたり、やはり斎藤美奈子さんは文芸評論家だなあ、と。


タグ:斎藤美奈子
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『SFマガジン2010年8月号 浅倉久志追悼』 [読書(SF)]

 ひたすら追悼特集が続いている観のあるSFマガジンですが、2010年8月号は浅倉久志追悼ということで、氏が翻訳した短篇作品から5篇を選んで掲載してくれました。

 巻末には力作「浅倉久志 全翻訳作品リスト」が載っています。このリストは圧巻のひとこと。クラークが、ディックが、ラファティが、ヴォネガットが、ティプトリーが、テッド・チャンが。眺めているうちに「この人がいなかったら今の自分はなかった」という気持ちがこみあげてきてちょっと、ね。

 さて、掲載作はいずれもSF色が薄く、どちらかと言えばアイデアよりも文章の巧みさで読ませる小説が選ばれています。浅倉久志追さんの翻訳を味わうという主旨なので当然でしょう。

 最初はキース・ロバーツの『信号手』。代表作『パヴァーヌ』に収録された中篇で、腕木通信(無線機が発明される前に使われていた通信システムで、信号塔に取り付けられた腕木を動かして符合を作り、遠隔地から望遠鏡で読み取る)の信号手にあこがれた少年が、ギルドへの入会を許され、厳しい試練を乗り越えて一人前の信号手へと成長してゆく姿を描きます。

 山の中でたった一人、ひたすら信号塔の手入れをして、隣の信号塔を監視し続けて冬を越すという、孤独で過酷な生活。生じたアクシデントの様子など、重厚かつ丁寧な描写を積み重ねてゆくことで信号手の姿に奥行きを与え、読者の感慨を呼び起こす傑作です。わずかにファンタジーの要素が入ってますが、 SF色はありません。

 『田園の女王』は、これはもうラファティとしか言いようのない変な作品。自動車が普及する代わりに電車が発達した世界が舞台で、そこは自然と文明が調和した美しく幸福なユートピアになっています。しかし、そんなユートピアに背を向けて、違法な密造自動車を走らせる犯罪者がなくなることはありません。自動車は悪魔の機械と見なされ、見かけた人々は電車の窓から銃をぶっ放して自動車を消し去ろうとするのでした。

 風刺というにはあまりに奇妙な味わい。ユートピアに生きるエコで心優しい人々よりも、燃え盛る自動車の中で「チンチン電車で天国へ行くよりも、おれは自動車で地獄へ行くほうを選ぶ!」と叫びながら吹き飛ぶドライバーの方に共感を持ってしまうんですね。環境問題に敏感で意識が高いくせに、じゃ環境保護のためなら宇宙開発を放棄するかと言われたら猛反発する、そんなSF者の姿をからかわれているような思いです。

 時間が流れるというのは幻想で、映画フィルムの一コマ一コマのように、一瞬一瞬は独立して永遠不滅に存在しているのではないか。誰もが考えることですが、それを正面から扱ったのが、リチャード・グラントの『ドローデの方程式』。

 一瞬の永続、というテーマはSFやファンタジーでは常に人気のあるテーマですが、本作はあまり理屈をこねることなく、「人生の素晴らしい瞬間をそのまま永遠に生きることができたらいいのに」という願望をそのまま叶えてしまう話です。いい話ですが、あまりにもひねりがなさ過ぎるのはどうかと思いますね。

 ロジャー・ゼラズニイの『このあらしの瞬間』は素晴らしい。ある植民惑星のコロニーが特大級の嵐に襲われ、何日も洪水が続いた挙げ句に、社会秩序が崩壊して人々が人間性を喪失しかけてゆくという暗い話ですが、ディザスターパニックものや、バラードめいた破滅ものにはなりません。

 嵐と人生を重ね合わせ、人間の本性とは何かを問いかける本作は、悲しいストーリーにも関わらず、その絶妙な語り口のおかげで明るく力強い印象を残してくれます。ゼラズニイって、やっぱ巧いよ。

 最後の『自転車の修繕』(ジェローム・K・ジェローム)はユーモア小説。友人と自転車で遠乗りにゆく予定の主人公。その友人が、お前の自転車、前輪がちょっとぐらついているな、直してやろう、なあに俺に任せておけよ、などと言い出したところで読者には先がはっきり分かりますが、そう、予想通りの展開が待っています。

 十九世紀に書かれた作品ですが、少しも古い感じがしないのは、まあハッカー気質の自信家のやることは何百年たっても何も変わらないということなんでしょう。予想通りの展開が楽しくて思わず失笑してしまう掌篇です。

 個人的なお勧めは『このあらしの瞬間』(ロジャー・ゼラズニイ)と『信号手』(キース・ロバーツ)ですが、他の作品もユーモアやらペーソスやらがじんわりと効いてくる良作ぞろいです。こういう訳文も、もう読めないのかと思うと悲しい。

[収録作]

『信号手』(キース・ロバーツ)
『田園の女王』(R・A・ラファティ)
『ドローデの方程式』(リチャード・グラント)
『このあらしの瞬間』(ロジャー・ゼラズニイ)
『自転車の修繕』(ジェローム・K・ジェローム)


タグ:SFマガジン
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『Political Mother ポリティカル・マザー』(ホフェッシュ・シェクター振付) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 英国における新進気鋭のコリオグラファ、ホフェッシュ・シェクターの初来日公演を観るために、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場まで行ってきました。

 『ポリティカル・マザー』は、先月に世界初演されたばかりという最新作で、振付と音楽の両方をシェクターが担当し、10名のダンサーと8名のミュージシャンが出演する作品です。

 劇場につくと、壁に「本作品では大音量が使われますので、心臓の悪い方、妊娠している方、補聴器をつけている方は係員まで申し出て下さい」みたいな張り紙があり、舞台両袖にはモニュメントみたいな巨大スピーカーが。席が最前列なもので、いったいどんな大音響にさらされるのか、開演前ちょっとドキドキしました。

 実際に始まってみると、何だこの程度かというか、ヘビメタ世代を甘く見てもらっちゃ困るぜというか、別に後遺症が残るほどの大音量でもなく、これなら特に問題ありませんでした。

 というわけで、ドラムが激しく攻撃的に打ち鳴らされ、エレキギターの絶叫が響き渡り、演説の声がわめき散らすなか、ダンサーたちは民族舞踏をベースにしたような苦悶と苦闘のダンスを踊ります。

 軍事独裁政権下で抑圧され苦しむ民衆の姿を描いたと思しき作品ですが、その演出は率直に言ってすごく俗悪っぽくて、あまりイケてません。しかしながら、ダンス自体は力に満ちており、訴えかけてくるものがありました。特に全員で踊る群舞は素晴らしく、気になって後で調べたらやっぱりシェクターはバットシェバ舞踏団出身だったんですね。

 最後に古ーいダサバラード(これまた後で調べたら『青春の光と影』1969年ヒットナンバー)が流れる中、映画のエンドロールよろしく、これまでの舞台の印象的なダンスシーンを高速逆回転させたように動きを逆にして踊ってゆき最初に戻る、という演出はけっこう気に入りました。これ、他の演出家も真似しそうな予感。

 ハードロック調の大音響の中でダンサーたちが次から次へと踊ってゆくシーンのかっこ良さ、ダンスを含む寸劇をつないでゆく構成など、何だかなじみがあるような気が、と思ってよく考えたら、これ『コンドルズ』ですよね。そう思えば、イケてない演出も、ダサい音楽の使い方も、やりすぎ感漂う繰り返しも、すべて納得です。(納得するなよ)

 とか何とか言いながらも、けっこう気に入りました。ホフェッシュ・シェクター。結局ダンスにパワーがあればそれで満足です。これからオハッド・ナハリンを目指すのか、それとも近藤良平を目指すのか、どちらに進むか楽しみなコリオグラファです。


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『鷹の井戸』(梅若玄祥、森山開次、ヤンヤン・タン) [舞台(コンテンポラリーダンス)]

 能楽師の梅若玄祥(梅若六郎)、コンテンポラリーダンスの森山開次、バレエダンサーのヤンヤン・タン(譚元元)が共演するというので話題になった新作能『至高の華 新作能楽舞踊劇「鷹の井戸」』の公演を観るために、夫婦で国立能楽堂へ行ってきました。

 能とバレエのコラボレーションと言えば、マイヤ・プリセツカヤが梅若六郎、藤間勘十郎と共演した『能・バレエ・舞「ボレロ・幻想桜」』を思い出しますが、今回は“コンテンポラリーダンス界のへんないきもの”森山開次、サンフランシスコバレエ団のプリンシパルであるヤンヤン・タンという、ばりばりの現役ダンサーたちとの共演です。当然、両者とも派手に踊ります。

 イエーツ原作『鷹の井戸』を元にしており、飲んだ者に永遠の命を与えるという井戸をめぐって、その守護者たる鷹姫と、老人・若者それぞれの欲望と対立を描いたストーリーとなっています。まあ、『火の鳥』(手塚治虫)ですね。

 まずヤンヤン・タンの鷹姫が非常に印象的でした。その細く長い手足を存分に活かした空気を切り裂くような鋭い動き、流れるような美しい舞で、ごく狭い空間で踊っているにも関わらず、大空を自由自在に飛翔して王子を翻弄する様を見せてくれました。動きはバレエの演目でいうと『火の鳥』です。『火の鳥』では王子が勝利しますが、今作では鷹姫の完勝に終わります。

 梅若玄祥はさすがの存在感で、ただ立っているだけで舞台の空気を支配してしまいます。苛立ち、失望、落胆、妄執といった感情を、手足のごくわずかな動きで表現してのける様は驚異的。能の凄みを感じさせてくれました。

 森山開次は今回ちょっと損な役回り。翁には威圧され、鷹姫には翻弄され、両者の引き立て役という感じでした。まあ能とバレエという、それぞれ確固たる伝統に支えられた表現様式と比べて、そういうものがないコンテンポラリーダンスというものの立ち位置を象徴しているようです。けっこうセリフもありますし、剣舞などダンスシーンも多いのですが、一番印象に残ったのは最後の最後に廊下(橋懸かり)をするすると滑るように退場してゆく後ろ姿。妙に“この世のものにあらず”感をかもしだしていました。

 激しく踊るバレエとコンテンポラリーダンスを、抑えに抑えた最小限の動きで受け止めてみせる能というスリリングな舞台。全体で70分ほどの公演ですが、私のように能を観たことがない観客でも充分に楽しめました。

[キャスト]

翁 :梅若玄祥
王子:森山開次
鷹姫:ヤンヤン・タン(譚元元)

原作:イエーツ
脚本:村上湛
演出:梅若六郎


タグ:森山開次
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