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『三姉妹とその友達』(福永信) [読書(小説・詩)]

 得体の知れない不可思議な作品で小説の可能性を広げつつ多くの読者を困惑させてきた福永信さんの最新長篇。単行本(講談社)出版は、2013年02月です。

 印象的な登場人物が提示され、その人となりやら抱えている事情やら動機が説明され、読者の感情移入を促しつつ、結末に向けてそれなりに論理的にストーリーが展開してゆく、というような常識を、てんで無視した破天荒な小説、というかそもそも福永信さんが書くものを小説に分類してよいのか、まずそこからして悩んでしまいます。

 今作もかなり奇天烈。

 まずタイトルからして謎。というのも、本作には三姉妹が登場しないのです。その友達も登場しないようですが、もしかしたら登場人物の誰かが三姉妹の友達なのかも知れません。そうでないのかも知れません。何か文学的な仕掛けなのかも知れませんし、ただのいちびりかも知れません。

 気を取り直してページを開くと、まず『三姉妹』と題された全四幕の戯曲が始まります。第一幕は「長男」による語りで、たった一つの長い長いセリフだけで構成されます。第二幕は「次男」、第三幕は「三男」、第四幕は「四男」の語りで、それぞれ長い長いセリフ一つで構成されています。いわゆるト書きは皆無なので、舞台がどうなっているのかまったく分かりません。三姉妹も登場しません。それはさっき云った。

 どこが戯曲だ。

 「どうかその手にもっているものを投げすててくれ。どうか、ポケットに入っているものをいますぐ出しなされ。その背中にまわした手を、前へ出してください」(単行本p.11)

 いきなり出だしから「してくれ」、「しなされ」、「してください」の連打。この後も、ずっとこの調子で要請、というか懇願が続きます。そう、この戯曲?は、それを構成する文章のほぼすべてが読者?に対する懇願になっているのです。

 「どうか、同窓会に参加してくれ。同窓会に ・・・・・・まだ「失敗していない」自分と出会うことができる、またとない機会なのだからね。がんばろうじゃないか。そのころの自分しか知らない・・・・・・その後のきみのことを知らない仲間と会うことで、心の健康を保ってくれ。むろん・・・・・・もちろんかつての同級生との差を見せつけられて、より傷が深まるという可能性もあるが・・・・・・どうか、自分の選択をおそれないで」(単行本p.39)

 「人間の気持ちが・・・・・・何もしないというあきらめの心が、大事だったということかも。いや、もっと消極的に、物事をとらえるべきだと・・・・・・だめだ、だめだ、もうだめなんだ、という後ろ向きな気持ちが・・・・・・「人生のあきらめ交響曲」が聞こえてくるまで後ろ向きに物事を見る訓練をくりかえしていたことが、逆転の発想を生んで、自然治癒力を増進させたのかもしれぬ、とにかく・・・・・・とにかく、どうか、心配しないでくれ」(単行本p.59)

 懇願口調で腰が低い割に慇懃無礼で言いたい放題な気もしますが、とにかくこんなセリフが延々と続くのです。話の内容は・・・・・・、何だかよく分かりません。

 多機能携帯電話を撲滅し、代わりに貝がらを使って心と心をつなぐべし、と唱えた四兄弟がそのために他人から多機能携帯電話を奪ったり、生涯に出会ったすべての人に生死を問わず出席してもらう「人生同窓会」を開催したり、四段ベッドを崩壊させたり、なんかそういうことをやっているようです。

 続く作品は、『そのノベライズ』。

 つまりですね、ここまで続けてきた戯曲?を小説?にしたというものです。懇願口調は止めて、ごく普通の文章で語られます。話の内容は・・・・・・、何だかよく分かりません。

 多機能携帯電話を撲滅し、代わりに貝がらを使って心と心をつなぐべし、と唱えた四兄弟がそのために他人から多機能携帯電話を奪ったり、生涯に出会ったすべての人に生死を問わず出席してもらう「人生同窓会」を開催したり、四段ベッドを崩壊させたり、なんかそういうことをやっているようです。

 付録のように収録されている『この世の、ほとんどすべてのことを』は、ひらがなを多用した「小学校低学年向け」っぽく見せかけた短篇です。大人たちに代わって子供たちが仕事をしたら、実は世の中それでうまくいったという話。

 「この世の、ほとんどすべてのことを、こどもたちが、になうようになりました。おとなにならないと、できなかったしごとなんて、ほんとは、なかったんです」(単行本p.148、149)

 最後のオチもきれいにキマっていて、これは普通に面白い。良くできたショートショートだと思います。もしやこの作者、技巧に耽溺しないごく普通の小説を書けばもっと売れるのでは、などというてもせんないことを考えてしまったり。でも、次回作もまた読者を驚かせ困惑させる作品であることを期待してしまうのです。


タグ:福永信

『母の発達、永遠に/猫トイレット荒神』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「笙野は書く機械だ。生きている限り言葉は地面から泥を付けて這い出てくる。言葉は別れえぬ猫だ。そうでなければ、誰が今さら、ドーラをうしなってまで書くであろうか」(単行本p.82)

 「ドラ、ありがとう、一生、ありがとう、全部楽しかった、ずーっと幸福だった」(単行本p.222)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第68回。

 代表作の一つである『母の発達』の続編と、神変理層夢経シリーズ序章を合わせ、その境界線上をひた走る傑作。単行本(河出書房新社)出版は、2013年02月です。

 「いろいろ考えて熊野で手に入れた石をその御神体にした。荒神棚に入れた」(単行本p.124)

 その小さな石が依代となり、『母の発達』のヤツノは若宮ににと出会う。生と死の境界、ダキナミ母神話と神変理層夢経の境界、そんな境界を司る荒神様。

 『母の発達、永遠に』には、死んで母天国に昇ったダキナミ・ヤツノが地上に帰還するまでの話『にごりのてんまつ』と、その後、三重に帰郷してからの生活(韓流ドラマを観てたり)をえがいた『母のぱぴぷぺぽ』の二篇が含まれます。

 「要するに神道は濁りを嫌うんや、死の汚れも不幸も、怒りも、無い事にしたがる。そして自我の大切なファクターである罪の概念も、汚れという主体のあいまいな概念に読み替えてしまって、その上できれいごとに終らせているのや。すべて濁ったものから、目を背けている」(単行本p.21)

 「彼女の目の前に現実があった。それはどこを見てもどの隅にも濁りがなく、ただもうリセットだけが幅をきかせる、判りやすさによって制圧された「程の良い」世界だった」(単行本p.32)

 だがそんな現実世界(ここ)にあっても、「けして絶望の許されぬ世の中だと」(単行本p.39)覚悟しているヤツノは、「まだまだやれる」(単行本p.84)とばかりに戦い続けます。がんばるんや。

 「選挙で選んだ党だろうと言われたところで全部の政治を動かしているものはこの島の外にある。なのに「気高い」人々は「実直に」言っている。「選挙で選んだのだから自分達の責任」と。騙されて責任、取り囲まれ責任、作り込まれて責任、押しつぶされて責任、犯人だけが粛々と免責されながら。ああ」(単行本p.65)

 「プルトニウムの母だからそうだと決めつけるのをおやめくださいね。ここでお知らせすると、今後の私は反原発をもかねますのよ、これからは売れる反原発判りやすい反原発トラブルのない反原発だけを報道します。だって私以外の反原発では再稼働が出来ませんもの。ええ私には責任がありますから」(単行本p.69)

 「変わった変わったと言われる震災以後の社会、しかしそれはただ震災の前も後もただただただただ、たった一種類の嫌さがまかり通るだけだった」(単行本p.74)

 ヤツノが戦っている一方で、金毘羅は一人称に不具合が出るほどの難儀を抱えていました。

 両者をつなぐ「「母の発達、永遠に」あとがき兼「猫トイレット荒神」前書きプラス「はみ出し小説」その他「蛇足作文」 そして境界線上を文(おれ)は走る」を経て、そのままだーっと『猫トイレット荒神』に。そして、ついにそのときがやってきます。伴侶猫ドーラとの別れのときが。

 「自分は金毘羅で金毘羅の母がいた。そんな「偽」の自分史を私は書いた。その後「現実」の自分史が出自から、父と母の力関係から、親と自分の人間関係まで全部誤認だったと、ふいに知った。ここで現実と偽はひっくり返った。故郷に逆らう事で自分をつくってきたはずのその故郷も消えた。偽だけが固まった実の幻が自分だと判った。その脱力の中、私はあたしになった」(単行本p.246)

 「あたし」となった金毘羅は、便所をサポートしてくれる地神を呼んでもらうべく、クイズに挑みます。荒神とは何か、便所神とは何か。

 「世界はもうインチキだらけで、クイズの形で問いを出す以外にその真の可能性など失われているから、(中略)クイズはここにある。謎から始めて答えもないままに、ずっとずっと問えばこうして小説を、書いていけるクイズ。だって書くことがあるから、永遠にある。書けない程の事ばかりを書いてゆけば、書く事がいつまでも残るからね」(単行本p.265)

 「繰り返しを繰り返しにしないこと。それが肝心だ。そして国様は都合悪ければすぐ忘れるから、その油断している隙に、むしろ身も蓋もなく汚れも恐れず攻めていくだけなのさ。そう、手を替えても品を替えても結局ひとつことを繰り返すたびに、そのひとつは新しくなっていく「古く」なっていく。起源に近づいていく。終わりから遠ざかる」(単行本p.104)

 「自分の中の、他者を拝む、それを神と呼ぶ、人間の個々の精神の中にある社会性を備えた魂を呼んで拝む。フォイエルバッハはそれを「人間の本質」と呼んだけれど私は荒神と呼んでいるだけだ。そんな荒神がいるから、きっと猫が死んでもなんとかやっていける。だって彼十年も待っててくれたのだから」(単行本p.132、133)

 スクナヒコナに祈っていたときも、金毘羅になったときも、萌神に助けられたときも、海底から大精霊がやってきたときも、いつも見守っていてくれた荒神様。基本的に見守るだけですが。

 「にゃん公くん?」(単行本p.129)という呼びかけから連想するに、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』のあとがき小説『ひとりで国家と戦う君だけに愛を』に登場した「にゃん公君」も、その正体は、実は若宮にに様だったのかも知れません。

 荒神クイズと便所神クイズに答えたら、ついにやってきた便所サポート担当の地神。いきなり脳内を乗っ取って託宣小説『割り込み、地神ちゃんクイズ』を放って。そこからは。

 ときに狂騒的に、ときに切々と、一人称も点滅しつつ、あまたの神々の「声」があまりにも天国的に響きわたるなか、涙なしには読めない超絶的な最終章「一番美しい女神の部屋」のクライマックスがやってきます。それは常世の文学。ひたすら畏怖の念を覚えます。

 「私のいる時間は境界の時間。ひとつ間違えば時系列は狂う。私のいる場所はどこでもない場所、死から生へと移り、汚いからきれいに飛び、緊張と安心の点滅する地点。ここは一番美しい女神の部屋。死にながら生まれ、生きつつも別れ、リングをぷるんと越えて、生は交替する。誰かと交替しながら、生き延びる自分。残るものは記憶だけ、あるものは愛だけ。留まるのは幸福だけ」(単行本p.227)

 最後に後書きである「さて終わりもなく点滅する終点もどきのここで 物語は消え、文(おれ)が残る」が置かれます。

 というわけで、身震いが出るような素晴らしい作品です。笙野頼子さんの小説を読んだことがないという方も、まずは文庫化されている『母の発達』を読んで、気に入ったらそのまま本書に進めば、境界をこえて、いきなり最新シリーズ『神変理層夢経』に追いつけるという親切さ。

 なお、『神変理層夢経』シリーズは、その第一部『猫ダンジョン荒神』が既に出版されています。電子書籍でも読めます。この機会にぜひどうぞ。

 以下は余談ですが、『神変理層夢経』シリーズの今後について、本書から得られた情報です。参考までに。

 「猫キャンパス荒神という長篇に地震の事も近隣の汚染物質の事も書いた後である。「売れない」以外の理由で、この長篇が、文芸誌を有している出版社から出しにくいという、愚劣すぎる事情を抱えたまま、毎日を生きていた」(単行本p.82)

 「シリーズはこの先、「猫キッチン荒神」、他「猫クロゼット荒神」、「猫シンデレラ荒神」と続く予定だが、それらはおそらくドラのいない時間をも含みながらドラと生きるという設定になる」(単行本p.274)

 「猫との時間がふいに途切れ心の立位置が大きく飛んだこの「序章」だけはシリーズから外して番外編とするしかなかったのだった」(単行本p.275)


タグ:笙野頼子

『もうおうちへかえりましょう』(穂村弘) [読書(随筆)]

 「私に対するコメントのなかで、いちばん多かったのは「シャツの裾がジーンズのなかに入ってて変」というものだった。そんなの、と私は思った。そんなの、朗読の感想じゃないじゃないか。だが、何枚も何枚もそれが続くのだ」(Kindle版 No.412)

 話題になった『世界音痴』に続く、歌人の穂村弘さんの第二エッセイ集が電子書籍化されたので、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読んでみました。単行本(小学館)出版は2004年05月、文庫版出版は2010年08月、電子書籍版出版は2013年02月です。

 自分は世界からはみ出している、というか世界に触ることが出来ない。どうも他人とズレているがそれをどうしていいのか分からない。誰もが共感するそんな困惑をユーモラスに書いた人気エッセイの第二弾です。

 もちろん短歌評論を初めとする真面目な文章も収録されていますが、やはり印象に残るのは読者をして「まあ、悪いことはいわないから、ムーミン谷に帰った方がいいよ。ほむほむ」と思わせるエッセイ。

 「本当の自分に生まれ変わりたいと思う。そう云うと、よくある愚かな願望のようで恥ずかしいのだが、云い訳をすれば私は小学一年生の時からそう思っていたのである。昨今の流行に乗った訳ではない。時代の方がやっと私の愚かさに追いついてきた」(Kindle版 No.119)

 「心が冷えると「悲しくなるポイント」は、ますます前にずれてゆく。最近では土曜日の夜にはもう悲しみの予兆がある。明日はまだお休みなのに、既にあさっての運命を予感して怯えているのだ。「今」の王様どころか、これでは完全に「未来」の奴隷だ」(Kindle版 No.402)

 「放尿することなく、膀胱の中身を自由に「飛ばす」超能力を想像する。屋久島の縄文杉の根もとに湯気を立ててどさっと落ちる僕のおしっこ。すっきりと軽くなる膀胱。いや、屋久島までは望まない。(中略)そう、おしっこは半径500メートル以内の自分以外の人間の膀胱にだけ飛ばすことができる。これは危険な力だ」(Kindle版 No.485)

 「その後、私は大人になった。子供時代の予感はあたって、立派なひとにはなれなかった。通勤電車に乗って「人生」を送る毎日のなかで、偉人伝を読むことはなくなり、代わりに月刊「連続殺人鬼」といった類の本を愛読するようになった」(Kindle版 No.1143)

 なんかこう、半分くらい「あるある」と共感させつつ、どこかで「でも自分の方がややまし」というみみっちい優越感を覚えさせる。人気が出るのも納得のエッセイが詰まっています。マンネリ感がないのが凄い。

 個人的に特に気に入ったのは、とにかく読書まわりのエッセイですね。

 「旅先で立ち寄った古本屋で特徴のある装幀が目にはいってどきっとする。だが、改めて見直すと『特別料理』と『無限がいっぱい』である。こんな旅先にまで先回りして『一角獣・多角獣』を取り除くとは、造物主の仕事の緻密さに舌を巻く思いがする」(Kindle版 No.1220)

 「煙草の値上がりのニュースを聞くと、反射的に嬉しい気持ちになる。何故、嬉しいのか自分でも一瞬わからないが、その分、高い本を買ってもいいことになるからなのだ」(Kindle版 No.1430)

 「地下鉄日比谷線のなかで「おれはあんたにひとめぼれさあんたは成長したらすこぶるつきの誰もかなわぬ美猫になるよ」とか「なんとすごいなんとすごい季節でしょう」などと無表情に呟きながら、ぶるふる震えている中年男がいたら、それは私である」(Kindle版 No.1563)

 他にも、自分の本のタイトルを『人魚猛獣説』にしようと提案したら編集者にたしなめられてショックを受けたとか、『アラベスク』を読んでいてラストシーンが近づくにつれて「くるぞくるぞ、あの永遠の一瞬が」どきどきするとか、高野文子の新刊を読むときは月齢などのバイオリズムを考慮しなければならないとか。

 というわけで、読者に共感と困惑をまき散らすエッセイ多し。後に書かれる『整形前夜』や『現実入門』などのエッセイ集に比べると粗削りに感じられますが、やはり何ともいえない魅力があります。


タグ:穂村弘

『皮膚感覚と人間のこころ』(傳田光洋) [読書(サイエンス)]

 「意識は脳という臓器だけでは生まれません。身体のあちこちからもたらされる情報と脳との相互作用の中で生まれるのです。とりわけ皮膚感覚は意識を作り出す重要な因子であるといえるでしょう」(単行本p.145)

 皮膚感覚は人間の心にどのような影響を与えているのか。『皮膚は考える』、『第三の脳』、『賢い皮膚』の著者が教えてくれる皮膚科学の最前線。単行本(新潮社)出版は、2013年01月です。

 皮膚は単なる「身体を包む皮」ではなく、情報処理機能を持つ臓器である、という驚くべき研究成果を一般向けに紹介してくれた著者が、皮膚科学の最新状況をまとめる一冊です。

 全体を通じて探求されるテーマは、皮膚感覚が人間の心に与える影響、というもの。

 まず前半では、「熱いカップを持った人のほうが、架空の人をより心が温かい人だと判断する傾向が強かった」(単行本p.17)といった実験、あるいは母親からの皮膚刺激を受けることなく育ったラットは育児放棄する傾向が強いといった様々な研究成果を挙げて、「皮膚への刺激は、私たちの心や生理状態に少なからぬ影響を及ぼしていると考えられる」(単行本p.36)ことを明らかにします。

 さらに、免疫機能、音や光さらには磁場を感知する機能、といった皮膚が持っている知られざる能力を詳しく紹介してくれます。

 「皮膚のどこかがウイルスの感染を受けると、そのウイルスに対する識別能力、いわば記憶を持ったT細胞が、感染を受けた場所だけでなく、表皮と毛穴の表面に広がり定着することがわかった」(単行本p.61)

 「高周波音がまず表皮において何らかの生理的変化を起こし、それがさらにホルモンレベルや脳波に作用している可能性が考えられます」(単行本p.93)

 「表皮ケラチノサイトが赤い光と青い光に応答することを踏まえ、私たちは、網膜に存在する光受容器が表皮にも存在するのではないか、と考えはじめました。(中略)網膜で光や色を識別しているこれらのタンパク質が遺伝子の形でも存在していることが明らかになりました」(単行本p.97、98)

 後半になると、いよいよ皮膚感覚が心に影響するだけでなく、むしろ皮膚感覚によって自意識が作られるのではないか、という刺激的な話題へと進んでゆきます。

 「実験の結果は思いがけないものでした。被験者がその規則に気づく前に皮膚の電気状態が変わっていたのです。なんとなく「ひょっとしてこれは悪い札かなあ」という推察が、意識の前にまず皮膚に現れ、それからしばらく経って意識されるのです」(単行本p.115)

 「皮膚感覚は自他を区別し、空間における自己の空間的位置を認識させる。皮膚が自己意識を作っている、と言っても過言ではないでしょう」(単行本p.146)

 最後は皮膚のコンピュータシミュレーションといった最先端の研究を紹介し、今後の展望を示します。

 単なる触覚だけではなく視覚や聴覚を超える広範囲センサとして機能し、集めた情報を神経系やホルモン系を通じて脳に伝達して自意識を作り出し、気分や情動をコントロールする、そんな高度な臓器としての皮膚。提示される皮膚の新しいイメージが鮮烈です。

 内容はときに専門的になりますが、ただ最新の論文内容を紹介するだけでなく、例えば「深い眠りに落ちている夜中、無理やり起こされる学生さんも気の毒でしたが、測定者の私はぶっ続けの徹夜で、辛い実験でした」(単行本p.59)といった具合に、自らの研究体験を生き生きと語ってくれるところが魅力的。

 というわけで、現代の皮膚科学についてよく知らない方はもちろんのこと、これまでの著書で皮膚の新しいイメージに慣れた読者も新鮮な驚きを感じるに違いありません。


『ザ・万字固め』(万城目学) [読書(随筆)]

 「煽り文句を真に受け、私は電力株を買った。ネット証券に口座を新たに開設し、いちばん大きな会社がいちばん安心だろう、と東京電力の株をしこたま購入した。2010年12月のことである。(中略)経験したことのない額を一気に約定させたときには、さすがに身体が熱くなった」(単行本p.132、133)

 東京電力株主総会、全日本愛瓢会への入会体験、台湾でのサイン会、森見登美彦への嫌がらせ、謎球技「遠投げ」の思い出。人気作家によるエッセイ第三弾。単行本(ミシマ社)出版は、2013年02月です。

 万城目さんの本はこれが初めてなのですが、とにかく話題になっている「やけどのあと(2011 東京電力株主総会リポート)」を読んでみたかったのです。

 「トレード画面にその数字が収まりきらず、「S」という千を意味する記号が、0がたくさん並んだ脇に添えられているのを、私ははじめて目撃した。(中略)あまりの急降下に、私は呆けた。何ら手を打つことなく、注文を発することもなく、ただただ口を開けて金が消えていく様を見守っていた」(単行本p.136、137)

 震災のわずか数カ月前に欲をかいて東電株を大量購入した著者。事故後、当然ながら暴落して連日ストップ安。こんな「心温まるエピソードはそうはお目にかかれない」(単行本p.139)と自虐する美味しいネタから始まって、話は事故後はじめて開催された東電株主総会への出席という流れになります。その光景は。

 「前方のガチガチの応援団に、おそらくこの会社には柔軟さという言葉は存在しないのだろう、と開始十分にして、東京電力は見事にその社風を全会場にアピールすることに成功していた」(単行本p.144)

 「抑揚のない調子でだらだらと続けられると、一気に目の前から現実が消えていくのである。東京電力の役員は、常に自分たちが主役になることを嫌がった。隙あれば、主役の座を国や法律に委ねようとした。(中略)それはどこまでも滑稽な眺めだった」(単行本p.148)

 「時間が経過するにつれ、参加した株主が徐々に理解し始めたのは、この株主総会には何の推進力もなければ、目の前にいる役員の誰もが責任を取るつもりがない、ということだった。(中略)具体的に今後どう行動するのか、過去にどんな責任があったのかは、誰も何も言えないのだった。彼らは無力だった。株主はもっと無力だった。そこにはとことん現実が存在しなかった」(単行本p.149、151)

 うん、まあ、そうでしょう。

 「全日本愛瓢会なる、ひょうたんを愛好する人々が集うNPO法人が作成するひょうたんガイドブック、価格は二千円」(単行本p.19)を注文したら、全日本愛瓢会に入会してほしい、そうすれば冊子は無料でプレゼントする、年会費は一年三千円、という電話がかかってくる。「二千円の本を注文し、三千円の勧誘で折り返してくることに新鮮な驚きを感じ」(単行本p.20)、全日本愛瓢会に入会した著者。

 森見登美彦が綿矢りさにサインをもらう現場に居合わせた著者。

 「「あ、僕もついでにやっときましょうか」と申し出ると、森見さんは口の端っこを歪め、「いや、別に」と言うので、張りきって綿矢さんの隣にへろへろの字でサインをしておいた」(単行本p.227)

 台湾のサイン会にて、読者から「森見登美彦さんと仲がよいですか?」という質問を受けた著者。

 「「森見さんとはそうですねえ・・・・・・、仲がいいか悪いかと言ったら、うん、悪いですね」(中略)おもしろおかしく言ってみたつもりが、真面目に通訳されてしまったか、場の雰囲気が急にシュンとしてしまった」(単行本p.79)

 京都を舞台に大学生があたふたする小説を書く者同士、なんかこう、余人には窺い知れない絆のようなものがあるのかも知れません。

 『鴨川ホルモー』の翻訳に当たって「ホルモー」をどう訳したかを見ると、「極東アジアを構成する各国の国民性がほのかにうかがい知れておもしろい」(単行本p.62)という著者。

 「何の注釈もなく「ホルモー」を受け入れてしまう日本と台湾、この両者は明らかにゆるい。一方、読者に何かしらの注釈をつけてあげようとする中国と韓国、こちらは真面目である。そして、北朝鮮ではホルモーの存在自体が許されない」(単行本p.62)

 他に、日本語で「サイコパス」という言葉がこわく感じられないのは「サロンパス」という商品のせいではないか、藤堂高虎という戦国武将は父の名前が藤堂虎高で母の名前は「とら」で「親子揃ってどんだけ虎づくしやねん」(単行本p.43)とか、子供の頃に遊んでいた謎の球技「遠投げ」の思い出とか、エーゲ海の旅、寿司や鰻の話など。

 意外に手堅いという印象のエッセイ集ですが、あちこちに笑える部分もあって、退屈しないで一気に読み通せます。同じ作者の小説も読んでみることにします。


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