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『ドン・キホーテの「論争」』(笙野頼子) [読書(随筆)]

 「「それはまた怖いもの知らずだね、しかし、君はまさに純文学だよ、他に言いようがない」というような事を相手は答えた。藤枝静男の作品に出会ったのはその後だった。十八年経って、偏見を恐れず、私は自分を「純文学だ」と言えるようになっていた」(Kindle版No.410)

 「純文学は純文学と名乗ったとき地下に潜ったのではないか。多くの大衆文学とまるで異なる使命を自覚的に負って、それ故負けに入る事を自ら引き受けたのではないのか。それならば純文学は、戦いとワンセットであるべきなのだ」(Kindle版No.216)

 「マスヒステリーに抵抗し売上げ文学論に抵抗し判らん癖に干渉しにくる権力者にも抵抗して、つまり抵抗し危険にさらされる外部との接点に純文学はある」(Kindle版No.304)

 「私は業界の内部と外部を同時に敵に回し、正体の判らぬ、一作家には大きすぎる曖昧な敵と戦う羽目になった。(中略)その度いちいち陰湿な報いを受けて来ていた。外の敵よりも内の冷笑が応えるケースもあった。「私はピエロじゃない、私はドン・キホーテだ」といつしか思っていた」(Kindle版No.62、70)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第80回。

 後の作品に大きな影響を与えた90年代中頃の純文学論争をまとめたエッセイ集の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は1999年11月、Kindle版配信は2013年11月です。

 「私が攻撃している敵とは----まず、マスコミのシステムの欠陥に巣くうインチキな言説の一種である。「自分たちに理解出来ない、少数者から深く愛される芸術作品」を抹殺しようとする、マスヒステリー的な大声である」(Kindle版No.45)

 「売れなきゃ駄目、売れないものは駄目、(中略)売上げ文学論とか売り方文学論と私が呼んでいるこういう論調の言葉が、ついに文化や研究の領域にまで浸透して来て、しかもそれらは気分だけの大声で繰り返された」(Kindle版No.80)

 「彼らはそうした自分達の文学観だけを一流とし全部としておきたいだけだ。つまり自分達に縁のないものを排除したいのだ。(中略)そして余所の静かな「少数」を排斥する以外には自立する事も出来ないのだ。進歩しようとしオリジナリティを求めるものたちを、憎んだ連中が今の九〇年代純文学を叩く。それらは彼らの肥大したあさはかなプライドを傷つけるのだ。彼らを文化的ファシストと呼びたくもなる」(Kindle版No.386)

 「多くの人々の地道な努力を根こそぎにしてしまう、微量なのに害毒の甚だしい煙がこの世界に蔓延していた。(中略)どんなに細々とでも今まで守って来たものが崩れて行く。一旦堰を切ってしまえばそれは永遠に続く。立ち戻るために声を上げる人間は必要なのだ」(Kindle版No.87、95)

 売れない純文学は駄目、多くの人に届かない純文学は無意味、純文学なんてとうに終わってる、既得権の上にあぐらをかいている旧弊な文壇など潰してしまえ。繰り返されるそんな罵声に立ち向かう純文学作家。外部からは陰湿な攻撃を受け、内部からも冷笑され、それでも、巨大で曖昧で正体の見えない何か、に向かってひたすら突進してゆく著者。その孤軍奮闘の記録です。

 純文学に縁がない自分には無関係、と思う人がいるかも知れません。ですが、はたして本当にそうでしょうか。

 「経済効率(競争力、生産性)が低い」あるいは「多くの人に受け入れられ難い」ものは、「無駄、無意味、わがまま、排除されるべき特権」である、といった非難が、弱い立場にある少数の人々に対して投げつけられる様子を見たことがありませんか。新聞でも、雑誌でも、テレビでも、ネットでも、その種の抑圧的な大声が、幅を利かせてはいないでしょうか?

 自分にとってかけがえのない大切なものや活動が、社会を覆っている嫌な空気に押しつぶされ排除され消されようとしているとき、どうすればいいのか。目をつぶるか、自虐的なポーズを気取って自分も批判側に加担してみせるのか、それとも徒党を組んで自らの権利を守るためと称しながらより弱い立場の人々を叩くのか、それとも。

 そういうとき、15年前に笙野頼子さんがたった一人で繰り広げた「論争」を知ることで、また後の作品(特に『だいにっほん三部作』)を読むことで、巨大で曖昧で正体の見えない「敵」を見定め、何らかの覚悟を持つことが出来るかも知れない。そういう意味で、この純文学論争は他人事ではないと、私はそう思う。

 「その上この経済効率さえ実は隠れ蓑。つまり新しい物、時代の欺瞞をつくもの、少数者の声、それらに対するマスヒステリーの悪意が、「この純文学者め」という少数民狩りの大声になって現れます。これに対して、誰かが罵りを引き受けなければ、かようのインチキヒットラー言語は、大声で繰り返されついに実現されます」(Kindle版No.1406)

 「マスコミとは自動的に迷惑行為をし続けながら、誰がそれをしているのかさえそこにいる当人達にももうひとつ判らぬまま、勢いだけで時に国家規模の犯罪を準備してしまう増殖妖怪だ」(Kindle版No.3575)

 まるで今の世相を語っているような言葉の数々。洞察の鋭さに戦慄すら覚えます。

 とはいっても、本書のすべてが悲痛な論争文ばかりというわけではありません。1995年から一年間連載されたロングエッセイをはじめとして、自作紹介、書評集、など雑多なエッセイも収録されており、楽しく読むことが出来ます。

 エッセイのテーマは、神々でも、妖怪でも、猫でもなく(愛猫ドーラは登場しますけど)、化粧、エステ、ダイエット、素足の女性、病院、阪神大震災、本の帯を破る人のこと、引っ越し、ワープロの買い換え、メディアの女性差別、部屋の整理整頓が出来ない問題、日々の難儀、説教エッセイはなぜ多いのか、など。まるで若い売れっ子女性作家が書かされるエッセイみたい、などと大層失礼なことをうっかり考えてしまいました。

 個人的に印象深かったのは、「笙野頼子」というペンネームの誕生秘話。

 「投稿する直前「青灰頼子」というペンネームにしようかと一瞬考えた。(中略)笙野という名は何年か前、小説を書きはじめてしばらくした時に、コックリさんのように、天から降ってきた」(Kindle版No.2753)

 「その名がどこかから「やって来た」時、やはり青灰にしようかとまた迷った。すると、自分の背後で「この嫌な名前を使う以外小説を発表する方法はない」という、何か宿命だから諦めろと言っているような気配が生じた。幻聴すれすれ、と言う感じだった」(Kindle版No.2757)

 連載終了が近づくにつれ、「「文芸誌は読んでない」けど「文学が駄目になる」事ばかり望んでいる「業界関係」の方々に言われまくってしまうような気がしてならないので」(Kindle版No.2150)、「マンガの原作者になってそのマンガがうまく行ってないというだけでまたぞろ文学は駄目だ的論調になっちまうわけ」(Kindle版No.2171)、などと後の純文学論争を予感させる毒舌が飛び出し、そして。

 「気がつくとキーの隙間、フロッピーのスリット、フィルターとディスプレイの隙間からも、米粒程の手足や足の裏がちょろちょろと生えてきて・・・・・・みるみるうちに、うじゃうじゃと体長三センチくらいの小さい小さいおかんが、そう私のおかんと顔も服装もそっくりの小さい者たちが湧いて出たのだった」(Kindle版No.2220)

 まるで『母の発達』よろしく湧いて出た小さいおかんたちが何をするかというと。

 「私の頭の上でコサックダンスを踊るの。ひとり合点に首を振って拍子を取り、はやし立てるの。それでなんでドラまで一緒に踊ってるの、猫がピンクハウスの服着込んでステップ踏むわけ、そのアイドルみたいな振付はどこで一体習って来たんですかっ」(Kindle版No.2229)

 思わず笑ってしまうー。後の作品で擬人化したルウルウが服着たりしゃべったりしますが、ドーラが服着てアイドル振付で踊るシーン(可愛い)が読めるのは本作だけ。

 というわけで、数少ない笙野頼子さんのエッセイ集としても十分に楽しめる一冊です。しかし、もちろん最後は、純文学に対する祈りにも似た覚悟が語られます。

 「一握りの人間を死病から救う薬がもしあるとする。それが国民全体の万病をなおせないからと言って何が無力だろう」(Kindle版No.3559)

 「閉ざされた世界の中で安心し甘えきって「純文学は駄目だ」などと言う純文学者は何か勘違いしている。目的地も方角も各々異なる、旅人達の持つ磁石が北を向くように、純文学はある」(Kindle版No.835)

 「純文学は、野にあってしかも最先端等身大の世界を描く。娯楽性を時に抑えても例えば、人間の絶え間なく動き揺れる、矛盾に満ちた意識を誠実に追いかけ、個人の立場から幅のある社会告発を冷静に行い、また死後も残る独自の美意識を刻み続ける。少数者の声はその中で生き、安易な俗流世界観を相対化する。試みが成功すると信じて人々は、その森に住む」(Kindle版No.1225)

 「純文学という言葉はマスヒステリーや商業資本主義に対するレジスタンスであるからこそ、「詩の精神」というより「極私的言語芸術の戦闘的保持」であるからこそ、その危機も文士の森の入口にいる作家にしか見えないのだ」(Kindle版No.556)

 「私にとっての純文学とは何か、それは----極私的言語の、戦闘的保持だ」(Kindle版No.3686)


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『空飛ぶ納豆菌』(岩坂泰信) [読書(サイエンス)]

 「黄砂粒子の表面積をすべて足し合わせると地球表面の10パーセントから20パーセントにもなる(中略)黄砂粒子の表面積は陸地の面積全体と遜色ない。(中略)しかもミネラルの種類の豊富さにおいては大地とくらべ遜色ないのである」(Kindle版No.534)

 「2006年のケロッグとグリフィンの論文は多くの人に強いインパクトを与えた。彼らは砂塵嵐の影響をうけた空気の中では微生物濃度が上昇することを多くの事例を集めて報告したのである」(Kindle版No.546)

 「そのようなわけで、「黄砂に乗って何百キロメートルから何千キロメートルも浮遊してゆく微生物」にまつわる謎解きが、いまどきの黄砂研究といえるのである」(Kindle版No.554)

 黄砂に乗って、はるか上空を運ばれてゆく納豆菌。バイオエアロゾル学の現状と研究者たちの姿を活き活きと描いた新書の電子書籍版をKindle Paperwhiteで読みました。新書版(PHP研究所)出版は2012年12月、Kindle版配信は2012年12月です。

 バイオエアロゾル学という、あまり聞き慣れない研究分野の魅力を伝えてくれる一冊。大気中を漂っている微生物(などの有機物)に関する様々な知見、そして研究者たちの活動と情熱が詰め込まれています。

 「バイオエアロゾル学では、空気中に浮遊している微生物のありようを中心に、その影響に関するもろもろのものを研究の対象にしている。そして取り扱うスケールがとても広い。そんな特徴は、この分野がまたの名をダストバイオエアロゾル学と呼ぶ点に端的に示されている。日本流に言えば、黄砂バイオエアロゾル学と言うところであろう」(Kindle版No.20)

 オゾンホールの形成にエアロゾルが深く関わっていた、という研究の話も興味深いのですが、何といっても本書の中心となるテーマは、黄砂。

 「黄砂ははるか昔からあった現象でいろいろに研究されてきた。しかし、新しい謎が次々に出て来て今にいたっている」(Kindle版No.383)

 大陸の砂漠から巻き上げられた細かい砂塵が気流に乗って東に運ばれ、日本各地で降り注いでくる、あの黄砂。お馴染みの現象なので、謎や発見が相次いでいると言われてもぴんとこないのですが。

 「「グリーンランドの氷の中からタクラマカン砂漠由来のダスト発見」というニュースは、コロンビア大学のビスカエラらのグループによってもたらされた(1990年頃)」(Kindle版No.427)

 「「浮遊中の黄砂に大気汚染物質がくっついて、それがそのまま遠くまで運ばれていく」ことが明らかとなってきた。(中略)大空を浮遊する黄砂が中国・韓国・日本の工業都市の上空を通って、硫黄酸化物や窒素酸化物などを付着しながら、アメリカへやってくる。そうすると、アメリカ人のぜんそくや呼吸器疾患は、黄砂が運んでくる大気汚染物質と相関しているかもしれない」(Kindle版No.436、442)

 「「浮遊中の黄砂に大気汚染物質がくっつく」という現象は、興味深い副産物をもたらすことが分かった。そのひとつは、「黄砂が酸性雨を緩和する」というものである」(Kindle版No.449)

 「別の副産物は、海の生態系に関わるものである。太平洋のど真ん中にも黄砂は降る。この黄砂を海のプランクトンが食うのである。(中略)アジア奥地の乾燥地帯から飛び上がった砂塵の粒子が、遠く太平洋の真ん中にまで運ばれ、海の食物連鎖を通して、にぎり寿司となる」(Kindle版No.454、458)

 「ダストの雲は、地球環境の温暖化に対しては、おそらくは両方のことをやっているのだろう。現在のところ、総体としては地球の寒冷化に寄与していると考えられる」(Kindle版No.471)

 ジェット気流に乗って地球上をめぐり、一万キロを超える遠方にまで降り注ぐ黄砂。新大陸で喘息を引き起し、酸性雨を緩和し、海洋生態系にミネラルや有機物を供給し、さらには地球温暖化を加速したり抑えたり、地球環境に手広く関与しているらしい。あっと驚く意外な話が続々と登場します。

 しかし、ここから先が本書の醍醐味。黄砂の表面に付着して運ばれてゆく微生物の話題に移ってゆきます。地球の全陸地に匹敵する表面積、豊富に存在する栄養素、そこに付着して繁殖する微生物。それが世界中に広がって降り注いでくるということは・・・。うわっ、それは極めて大変な事態ではないのでしょうか。

 「通常、この空気をあたかも微生物がたくさん浮遊している海のように想像する人は少ないであろう。であるから、そのような状態になったら(現実にはそれに近いような気もするのだが)、極めて大変な事態だと考えてしまうのかもしれない」(Kindle版No.1628)

 私たちが呼吸している空気を、「黄砂に乗ってやってきた微生物がたくさん浮遊している海」と想像するのは、個人的には、ちょっと嫌です。しかし、それらの微生物には、あの納豆菌が含まれているというと何だか面白そう。

 「「納豆菌」の観察が始まった。黄砂バイオエアロゾルの試料からみつかったものである。(中略)この場では、このプロセスの大事さについて十分議論することができず、もっぱら数千メートルも上空に納豆菌が浮遊している話に集中した」(Kindle版No.1702、1710)

 黄砂に乗って数千メートル上空を飛ぶ納豆菌。この大発見を受け、研究者たちの挑戦が始まった。

 「観測のたびに採集した菌の中から納豆菌を取り出し、一方で暇を見つけては採集した納豆菌を持って納豆業者を訊ね歩いた」(Kindle版No.1723)

 そっちの方向に挑戦かあーっ。

 「試食会の結果、人気が高かったのは、立山の雪の中から見つかった菌を使った納豆と、珠洲上空のおよそ3000メートルで捕まえた菌を使った納豆であった。(中略)最終的にどの納豆菌の菌株を使った納豆を市場に投入するか、製品のパッケージなどをどのようにするか、特にパッケージに書くキャッチコピーなどをどうするか、など製造元、販売元とともに知恵を絞らねばならない問題は多い」(Kindle版No.1742、1746)

 「金沢大の食堂で売りに出された。大いに人気を博したことは言うまでもない。2012年10月末には北陸地区の百貨店やスーパーでも市販され始めた」(Kindle版No.1767)

 ついに決まった製品名は「そらなっとう」、キャッチコピーは、能登上空3000メートルの納豆菌でつくった「ニュータイプの納豆」。黄砂バイオエアロゾル学の威信ここに極まれり、という感じがします。

 ちなみに次のページから通販できるようです。

  そらなっとう
  http://www.kinjyo710.com/sora.html

 上のページは個人的に検索して見つけたもので、本書に掲載されたものではありません。またこの情報および通販に関して、もちろん味に関しても、私は責任を持てませんので悪しからず。

 というわけで、オゾンホールや地球環境といった壮大な話から始まって、学食の納豆に到達するという、楽しいサイエンス本。黄砂、微生物の空気伝播、バイオエアロゾル学、そして納豆に興味がある方にお勧め。


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『スリランカの赤い雨 生命は宇宙から飛来するか』(松井孝典) [読書(オカルト)]

 「スリランカの赤い雨のサンプルを入手して研究を始めました。その中で、いくつかの面白い発見がありました。その一つが、高濃度のウランが細胞内と細胞壁の両方から見つかったことです。これはノリ・ミヤケの発見です。もう一つの発見は、リン酸がないことです。これはスリランカのグループの発見です。リン酸がないということはDNAがないことを意味します。(中略)リン酸の欠落だけでなく摂氏400度での増殖(複製)が報告されています」(単行本p.164、165)

 「今までの研究に基づいて言えることは、2001年にケララ州で降った赤い雨も2012年にスリランカに降った赤い雨も、少なくとも塵でもなければ藻でもなく、限りなく宇宙由来であることを示唆しているということです」(単行本p.165)

 2012年11月、スリランカで降った「赤い雨」。そこに含まれていた細胞状物質の分析結果は驚くべきものであった。地球上のものとはとうてい考えられない異質な有機体。それは宇宙からやってきたのだろうか? アストロバイオロジー(宇宙生物学)の研究者が赤い雨の謎に迫る一冊。単行本(角川学芸出版)出版は、2013年11月です。

 『生命はどこから来たのか? アストロバイオロジー入門』の松井孝典さんが、同書にも書かれていた、「スリランカの赤い雨」に関する最新報告をまとめてくれました。

  2013年11月07日の日記:
  『生命はどこから来たのか? アストロバイオロジー入門』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-11-07

 「2013年4月初め、三宅君とチャンドラから、急ぎの連絡が届いた。赤い雨から採集した細胞状物質の細胞壁部分にウランの濃集がある、というのである。加えてその部分には、スリランカの研究グループの分析によると、リンがなく、その代わりにヒ素があるという」(単行本p.30)

 空から降ってきた赤い雨、その中に地球上の生命とは考えられない細胞状物質が大量に含まれていた、というのです。にわかには信じがたい話です。そもそも、赤い雨が降った、などという話は本当なのでしょうか。

 「赤い雨だけではない。ミルク色や、その他、様々な色に着色した雨が降ったという記録は、世界各地に数多く残されている。それを調べた論文がある。(中略)赤い雨現象168例のうち、100例が赤い雨で、残りの68例がその他の色の雨等の現象である。100例の赤い雨現象のうち、80例が雨そのもの、残りの20例が、河が赤くなるなどの現象である。そのうち、隕石落下と関係するのは、赤い雨80例中23例、残りの20例中13例、その他の68例中24例である」(単行本p.50、53)

 どうやら色つきの雨が降ること自体は決して前代未聞の珍事というわけではなく、しかも記録されているケースの半分近くで同時に隕石の落下が観察されている、ということが分かります。もしや、隕石によって宇宙から運ばれてきた何かが・・・。

 「2001年7月25日から約2ヶ月に亘って、インド南西部に位置するケララ州の広範な領域で、赤い雨が降った。ケララ州の赤い雨に関して、本格的な研究成果は、2006年、ルイスとクマールによる論文で発表されている」(単行本p.68)

 「赤い色は、4~10ミクロンサイズの赤い雨粒子による。(中略)赤い雨粒子は、単細胞の生物のように見える。この細胞状の粒子は、色のついた、厚い外皮を持つ。(中略)層状の構造が見られるが、核は見られなかったという」(単行本p.72)

 「信じられないが、高圧釜の中で摂氏300度もの高温にしたところ、増殖したという。実際、われわれの手元にある試料にも、増殖により、新たに誕生した娘細胞が存在した」(単行本p.61)

 深海の熱水噴出孔付近のような高温水中で増殖し、核を持たない細胞状粒子。そんな報告が論文として発表されているということに驚かされます。

 そして、いよいよ舞台はスリランカへ。著者が現地に飛んで「赤い雨」を調査した結果が示されます。

 「赤い雨粒子は厚い外壁を持ち、その内部に多重の膜構造を持つ。ケララ州の赤い雨粒子と同じような細胞状物質であることが分かる。(中略)画像に示すように、細胞分裂が起こりはじめている細胞もある」(単行本p.78)

 「驚くべき発見は、細胞壁にウランが存在することである。EDAXを用いた元素分析によると、細胞全体と細胞壁とでは、その元素組成が異なる。細胞壁にはウランが存在し、細胞内にはリンが少ない。(中略)われわれの結果ではないが、スリランカのナノテクノロジー研究所の分析では、ヒ素の存在が確認されたという」(単行本p.79)

 もし本当にこれが宇宙からやってきた生命だとしたら、大発見です。信じがたい話としか思えませんが、著者によると「生命は宇宙からやってきた」という主張は古くからあり、総称して「パンスペルミア説」と呼ばれています。

 宇宙が有機物に満ちていること、地球上での生命の発生は予想外に困難であること、いくつかの種は地球上ではあり得ない環境に適応する遺伝子を持っていること、などを挙げつつ、著者はフレッド・ホイルとチャンドラ・ウィックラマシンゲによる現代の「パンスペルミア説」に対して肯定的な見解を示します。

 「彼らの考えは、荒唐無稽ではない。科学的に検討されてしかるべき考えである。現在の科学の水準は、ようやくその検討が可能なレベルに達したと言える。「赤い雨」現象と同様、彼らのパンスペルミア説も今後、科学的検討が始まるであろうことを著者は予感している」(単行本p.104)

 というわけで、ここで終わっていればわくわくサイエンス本なのですが、本書には「第2部」として著者とチャンドラ・ウィックラマシンゲ博士の対談が収録されています。これが問題でして、ウィックラマシンゲ博士があまりに過激なことをしゃべりまくるため、一気にオカルト本のノリへと突き進んでゆくのです。喜ぶか、眉をひそめるか、それは読者次第。

 「彗星は太陽や地球が誕生した時の物質そのものです。そしてその中に初めから生命が宿っていたと考えられます。それどころか宇宙塵そのものが、生命であると考えています」(単行本p.170)

 「確率論からも、地球上の池のような粘土の水溜まりの中から生命が誕生する可能性は、彗星の中と比較して1万分の1位です。その上、数ということになると、太陽系の中には膨大な数の彗星があります。(中略)いずれにせよ、生命が地球から発生した可能性はほとんどないと考えています。それどころか、その痕跡すら何一つ見つかっていません」(単行本p.140)

 「ダーウィンの進化論は、地球が絶えず宇宙から遺伝子が入ってくるという開放系であれば成立します。エビは地球上に誕生してからほとんど何も変わっていません。外部から遺伝子が挿入されなかった種は進化しないという一例です」(単行本p.147)

 「ウイルスの中に人間の遺伝子を2万5000個くらい入れて宇宙に放出すれば、人間は不滅でいられます」(単行本p.149)

 このあたりまでは何とかついてゆけるのですが、対話が進むにつれて、ギアがどんどんアップしてゆきます。

 「われわれの遺伝コードが宇宙に拡散していると考えればいいことですから。地球上で再編・再構築された遺伝コードを宇宙に輸出(放出)しているからです。われわれの中にある情報は、もう次の地球に提供されているはずです」(単行本p.188)

 「言語能力の遺伝コードが宇宙からやってきたウイルスなどに運ばれて、それが人間に挿入されることによって人間が変わった。このように考える方が科学的であって、ダーウィン的な進化の仮説は極めて非科学的で不自然です。ダーウィンの進化説は実証されていません。仮説です」(単行本p.174)

 「ビッグバン宇宙論が、宇宙の創成に関して正しいとも最終的に認められる理論になるとも思っていません。ビッグバン宇宙論は当面の仮の理論であって、今流行っている宇宙論にすぎないと考えています。(中略)今日にいたるまで定常宇宙論が宇宙の正しい理解であると考えています」(単行本p.197、198)

 「生命には宇宙意思のようなものがあって、複製して拡散することが使命のようなものです。ですから宇宙空間における恒星の誕生は、生命の指令によるものであると考えることができます。(中略)物理的に恒星が誕生しているのではなく、生命の永続のために生命の宇宙意思にしたがって、星や惑星が誕生している。このような考えです」(単行本p.195)

 「近い将来、われわれは人間が自分の自由意志で考えていると思っていることが、実は錯覚にすぎない幻想であることを悟ります。われわれは、単に外部からコントロールされているだけであることを識るのです。人間は、宇宙から来て、そのDNA(ヒトゲノム)の中に静かに潜んでいるウイルスによって生かされているだけであることに気付くのです」(単行本p.213)

 エキセットリック科学者ラヴ、異端学説萌えの読者なら、小躍りしたくなるような奇抜な発言の数々。個人的には、この第二部のおかげで、せっかくの「スリランカの赤い雨」の分析結果の信憑性ががくんと損なわれたように感じられ、しょんぼりです。

 というわけで、アストロバイオロジーからパンスペルミア説へ、ウイルス進化論から大いなる宇宙意思へと到る、サイエンスとオカルトの間をきわどく駆け抜ける一冊です。このあたりの微妙な機微をこよなく愛する方々にお勧め。


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『SFマガジン2014年1月号 第1回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作発表!』 [読書(SF)]

 SFマガジン2014年1月号は、第1回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作の一部、および最終候補作を掲載してくれました。また、『星界』シリーズの読み切り短篇も載りました。


『みずは無間(第1部)』(六冬和生)

 「探査機に搭載する人格に求められる素質の優先順位一位は自己を破壊しないこと。過度に期待したり過度に希望を持ったり過度に熱意を持ったりしないこと。(中略)こうして俺は極東でもっとも感情の起伏の少ない男という称号を得たわけだ。これはみずはの俺に対する評価と一致する」(SFマガジン2014年01月号p.41、42)

 深宇宙探査機に搭載された人工知能に、人格を転写された青年。果てしない時間と空間のなかで、様々な意味で拡散してゆきながらも、不意に人間だった頃の恋人「みずは」のことを思い出す。

 「みずはをあまり寂しがらせないようにすることはできても彼女の精神の奥深いところに巣くった渇望を取り除くことはできなかった。飢えのサイクルに編み込まれた自我がみずはというパーソナリティなのだと気づいたのは、ずっとあとだ」(SFマガジン2014年01月号p.29)

 依存性が強く、ストーカー気質で、過食症に苦しむ、みずは。彼女の渇望が、執着が、飢えが、膨大な時間と空間を超えて青年の人格を呪縛する。そこから逃れるために彼がとった行動とは。

 というところで第一部が終了してしまい、この先がどうなるのか知りたければ単行本を買って下さい、ということになります。第一部だけの印象で勝手なことをいうなら、サイコホラー系のもつれとグレッグ・イーガン(遠未来、果てしなく拡散してゆく知性、といった感じの)を合わせたような、どうもうっとうしい展開になるのではないかと。


『オニキス』(下永聖高)

 「書き換えにより新しく創られた過去もさらに上塗りされて書き換えられうる。諸行無常、不変なるものなどこの世に何ひとつないという真理は、過ぎ去った時間にすらあてはまるのだ」(SFマガジン2014年01月号p.74)

 過去と未来を接続する物質「マナ」。その発生消滅により、過去の「書き換え」が繰り返し起きていることが明らかになった。この「書き換え」を研究するために、マナで保護された外部メモリに記憶を一時的にバックアップすることで、「書き換え」を認識できるようにする、という実験が行われる。

 実験のモニターに選ばれた主人公は、過去、そしてその帰結としての現在が、不断に「書き換え」られ続けているこの世界の実相を認識する。それは途方もない体験だったが、それだけでは済まなかったのだ。

 「時系列が紡ぎ出す過去から未来への物語そのものが、僕らの一部でもあり、僕らもまたその一部なのだとしたら、書き換えられたあとの僕やメイは果たして、書き換えられるまでの僕らと同じ存在と言えるのだろうか」(SFマガジン2014年01月号p.76)

 時間テーマ、タイムパラドックステーマの変種に、グレッグ・イーガン(近未来、新しいテクノロジーにより拡大された認識が、意識や自我の同一性や連続性を大きく揺るがしてゆく、といった感じの)風味を加えた中篇。

 私たちが感じる根源的な不安、「この世界は5分前に(過去履歴と共に)発生したもので、5分後には何の痕跡も残さずに消滅する、そうでないことを証明できるか」をうまく突いていて、読みごたえがあります。後半、二転三転する急展開が引き起こす混乱は、ひねりすぎにも感じられますが、これも「書き換え」を読者に疑似体験してもらおうという狙いかも知れません。


『岐路 星界の断章』(森岡浩之)

 「帝都ラクファカールは混乱の極みにあった。そのなかを、<クニュムラゲール>という名の特設工作艦(ダウスィア・ディフィカ)が進んでいた。 その艦橋(ガホール)で、コリュア・ウェフ=ボーザク・コンサ千翔長(シュワス)は空識覚器官(フローシュ)を澄ましていた」(SFマガジン2014年01月号p.153)

 アーヴの帝都ラクファカールの陥落が迫るなか、帝都防衛のために軌道館を要塞化するという任務を命じられ、故郷に帰還したコンサは、そこでかつての恋人ナースと再会する。

 「独立戦隊(ソーヴ・ラゴラザ)の任務はふたつあった。第一は、コリュア館を含む、一四の軌道館(トービア)から住民をソトリュール鎮守府(シュテューム・ソトリューラル)へ避難させることだった。第二は、軌道館のひとつを帝都防衛団(ソブレラシュ・アロク)のために要塞(リュール)へ改造することだった」(SFマガジン2014年01月号p.154)

 軍人として出世を目指すコンサ、交易を手がけ気ままに生きることを選んだナース、相いれない人生観ゆえに別れた二人。だが今や戦火は帝都に迫り、皮肉なことにナースは帝都防衛団員として死地に赴くことになっていた。そのことを知ったコンサは・・・。

 と、メロドラマの途中で申し訳ないのですが、この星界のルビ、読んでいる方も、おそらくは書いている方も、とても楽しいのですが、これが引用のために書き写すとなるとものすごく面倒くさいことがよく分かりました。


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『コルトM1851 残月』(月村了衛) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]

 「憎しみを込めて撃て。憎しみのない弾など当たりはしない。当たらなければ己が殺られる。殺られたくなければ憎め。お前なら憎める。敵を、人を、世の中のすべてを」(単行本p.62)

 『機龍警察』シリーズを始めとして、『一刀流無想剣 斬』や『黒警』など痛快娯楽小説を次々に書き下ろしている著者による時代劇。単行本(講談社)出版は、2013年11月です。

 日本の時代劇には、なぜ大規模な銃撃戦が登場しないのか。そんな不満を持っている時代劇ファンも多いのではないでしょうか。

 例えば、丸腰で悪漢に囲まれた絶体絶命の主人公。もはやこれまでか、というところで、相棒が拳銃を投げてよこす、と、次の瞬間、目にも止まらぬ旋回早撃ちで前後左右の敵が全員撃ち殺されるとか。時代劇にそういうシーンが登場したら、さぞや爽快だろうな、と。

 あるいは、揺れる船上での決闘(しかも二人を相手に)とか、六連発レボルバーたった一丁だけで十人の敵と渡り合うとか、暗闇のなか物音だけをたよりに多数の敵と撃ち合うとか、至近距離での刀と銃の対決とか、両手に構えた二丁拳銃で左右から襲ってきた悪漢を同時に倒すとか。

 そんでもってクライマックスは、惚れた女を救う、ただそのためだけに、何十人ものガンマンが厳重に守りを固めている敵の砦に、愛用のコルトを手にした主人公がたった一人で殴り込みをかけ、壮絶な銃撃戦を繰り広げた末、最後は因縁の対決に、なーんてのが最高なのに・・・。

 そんな方に朗報です。本書は、前述したシーンがすべて登場する時代劇なのです。

 それじゃ時代劇にならないだろう、雰囲気ぶち壊しだろう、などと思うなかれ。なにしろ著者は、重厚な警察小説に戦闘機動メカを無理なく登場させた『機龍警察』シリーズの月村了衛さん。本書でも、時代劇と西部劇を見事に融合させてみせます。

 ときは江戸時代後期。主人公は、日本橋の廻船問屋の番頭、「残月」の二つ名を持つ郎次。実直な商人という表の顔とは別に、彼の正体は抜け荷(密貿易)を仕切る裏社会の大物。逆らう相手は容赦なく消してしまう冷酷な男として恐れられていた。

 だが、跡目を競うライバルの策略によって朗次は窮地に立たされ、ついには命を狙われるはめに。今や手下も仲間もなく、ただ一人、犯罪組織を敵に回した郎次、いや「残月」。彼に残されたのは、懐に隠し持った一丁のコルトだけだった。

 「月光の下で朗次が正面から浪人の方に向き直った。それに応じて浪人が足を踏み出そうとした刹那。 朗次が懐から手を引き抜いた。 破裂音が轟き、一瞬の光が閃いた。同時に浪人が胸から血を噴いてのけ反り倒れる。(中略)海軍仕様口径コルト回転式ベルトピストル。のちの通称をコルトM1851ネイビー」(単行本p.6、11)

 裏社会との凄絶な死闘、そして朗次の血塗られた過去が交互に語られ、次第に物語はヒートアップしてゆきます。最後の決着に向けて。

 「それも運命という奴だ。知ったことではない。どうしようもない生まれの差。世間とはそれが厳然としてある場所だ。 だがやってやる。世間に、運命に、祝屋の仕事に水を差してやる。 仏心の持ち合わせなどもとよりない。あったとしても、遠い昔に失った。身延屋での----生まれた家での最後の夜に」(単行本p.181)

 「自分のコルトには全弾装填してある。殺した男から奪った銃にも。男の持っていた予備の残りがあと五発。それが今の自分の持つすべてだ。これで何もかも取り返す。失われた、すべて。あったはずのもの、すべて」(単行本p.284)

 「残月はあたしが消させるもんか」(単行本p.307)

 絶望的な火力の差を知りながら、あえて死地に向かう残月。闇を飛び交う銃弾。噴き上がる血しぶき。撃ち殺された死体の山を乗り越え、敵を追い詰める残月。二つの銃口が交差したそのとき。「銃声は一つに聞こえた。発砲はほぼ同時。硝煙の立ち込める中、崩れ落ちたのは」(単行本p.310)。

 というわけで、定型をこれでもかとばかりに詰め込んでありますが、これがもう痛快無比のひとこと。『暗黒市場』や『黒警』のノリで展開する、西部劇+時代劇。とにかく理屈抜きに楽しめる娯楽小説を求めている方にお勧めします。


タグ:月村了衛
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