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『エクソダス症候群』(宮内悠介) [読書(SF)]

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「いまの我々の目に、過去の医師たちは狂っているように映る。それは、取りも直さず、ありうべき未来の医師の目に、いまの我々が狂って映ることを意味する」
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Kindle版No.914

 強い脱出衝動を伴う精神疾患、エクソダス症候群。その集団発症という非常事態に直面した火星植民地の精神科医は、否応なしに「精神医療そのものの治療」という難題を突きつけられる。精神医療の再生にSFの手法で切り込んでゆく、新鋭の第一長篇。単行本(東京創元社)出版は2015年6月、Kindle版配信は2015年6月です。


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 都市部を、農村部を、沿岸部を、無色透明な不安が覆っている。
 人々はそれを、正気の暗闇と呼び習わす。人類は病を克服したのではなく、新たな別種の病に罹ったのだと。どちらが正しいのか、精神医学は答えを出す術を持たない。
 この状況は何かがおかしい。
 それは誰もがわかっている。
 生まれてくるのは、新たな検査や処方ばかりだ。それが分岐し、指数関数的に膨れあがり、遡っては更新され――医療は、人の手に余るブラックボックスと化した。
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Kindle版No.57


 治療しているのか、それとも病を作り出しているのか。向精神薬の大量処方に依存した現代の精神医療が抱えている問題を扱った作品です。舞台となるのは火星植民地。


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 ――馬車が道を走る一方で、情報システムは地球と比べても遜色ない。
 だが医療そのものは十九世紀的でもある。
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Kindle版No.512


 通りを走る馬車、雑然としたナイトマーケット、パソコンのブラウン管モニタ、そして19世紀的な隔離処置が行われている閉鎖病棟。未来の火星であるにも関わらず、どこか不穏な夢のような、アンバランスで歪んだ世界。

 そこの唯一の精神病院であるゾネンシュタイン病院に、若き精神科医、カズキ・クロネンバーグが赴任してきます。彼が、いわゆる信頼できない語り手となるのです。

 不吉な名前が頻出しますが、さらに「まるで露出した人間の蜘蛛膜」(Kindle版No.186)のようなドーム、「カバラの生命の樹を模した病院」(Kindle版No.1859)、といった具合に、やたらと象徴に満ちていて、どこか妄想あるいは精神世界めいた雰囲気が漂います。

 舞台となるゾネンシュタイン病院には、過去に何やら忌まわしい事件があってその記録が封印されているらしい、しかもそこには主人公の父親が関与しているようだ、といったことが次第に分かってきます。

 その秘密を探ってゆく主人公は、まるで精神分析を受けているかのように、少しずつ、少しずつ、自分の過去と向きあうことに。

 やがて、タイトルになっているエクソダス症候群の集団発症という非常事態が起きて……。


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 ――エクソダス症候群。
 幻覚や妄想を主とする、統合失調症様の障害。病名の由来は、旧約聖書のユダヤの集団移民にある。統合失調症と異なるのは、幻覚や妄想が強い脱出衝動を伴って表れる点だ。
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Kindle版No.1937


 事態を解決すべく、背後で糸をひいている黒幕と対決する主人公。しかし、何しろ医者と患者なので、対決は「診断」という形になります。


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「抑圧されてきた無意識は、これから反逆の狼煙を上げる。我々は、ただこの土地から脱出するのではない。科学と非科学の相剋こそを抜け出すのだ!(中略)新たなエクソダスが成就したとき、精神医学はその役割を終え、我々は新たなるカバラと新たなる精神分析を手にするのだ。そう――無意識を追放した精神医学から、今度は科学を追放してやるのだ!」
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Kindle版No.2419、2446

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 決断のときだった。
 こうした賭けのような診断は、本意ではない。だが、この男がなんらかの歩み寄りを見せたのは、これが最初であるようにも感じられた。そして何よりも――この男は、精神科の医療そのものに挑戦しているのだ。
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Kindle版No.2492


 無意識や霊性を重視し、ハーブや儀式を使う呪術。そこからスタートした精神医療は、暗黒時代を経て、今や客観性を重視するようになり、脳画像診断や薬物療法を使うようになりました。しかし、その方向性は正しかったのでしょうか。

 というわけで、長篇としては意外に短めの作品です。特に最後の1/3ほどで立て続けに事態が動いてあっさり終わってしまったという印象が強く、ややもの足りない面もあるのですが、精神医療の歴史(あるいは黒歴史)をベースに、どこか行き詰まっているようにも感じられる精神医療をどのようにして再生させるべきか、という難問に切り込んでゆく姿勢は刺激的で、わくわくします。

 正直、第一長篇のテーマが精神医療というのは予想外でしたが、いずれにせよ現代の問題にSFを武器にして正面から立ち向かってゆく作風は今作でも健在。第二長篇にも期待したいと思います。


タグ:宮内悠介