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『断片的なものの社会学』(岸政彦) [読書(随筆)]

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 自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。
(中略)
 ここには、「かけがえのないもの」や、「世界でたったひとつのもの」など、どこにもない。ただ、ほんとうに小さな欠片のような断片的なものたちが、ただ脈絡もなく置いてあるだけなのである。
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単行本p.193

 この世界は、いや私たちは、無意味で、孤独で、膨大な、そんな断片から出来ている。分析や解釈や総括からもれてしまう断片的なもの一つ一つを取り上げ、この世界が存在し、私たちがそこで生きて、誰かとつながる瞬間さえある、ということの驚きを発見する一冊。単行本(朝日出版社)出版は2015年6月です。


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 社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルもでこぼこだが、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。
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単行本p.7


 統計データやケーススタディ、当事者の語り、そういったものによって社会を分析してゆくとき、どうしてもこぼれ落ちてしまう、収まりの悪い、意味がよく分からない、あれこれ。

 それらを丁寧にすくい上げて、それを「誰の注目も集めないけれども、本当は意味のある大切なものなんだ」みたいな安直な落とし込みをしないで、意味もなくただ確かに存在する「断片的なもの」として考察する。そんな本です。


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断片的な人生の断片的な語りは、それこそそこらじゅうに転がっていて、私たちはいつでもそれを見ることができる。「離婚してめっちゃ太ったから激安店しかいけないよぉ」一ヶ月に一度ぐらいしか更新されない日記に、たったこれだけの文章しか書いていない。あるいは、アカウントを取得して「マックのテキサスバーガーまじヤバい」とだけ書いたあと三年近く放置されているものもある。これらはいつでもそこにあり、誰でもアクセスすることができるが、私たちはこの断片的な人生の断片的な語りから、何も意味のあることを読み取ることはできない。
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単行本p.37

 紹介される「断片的なもの」それ自体が魅力的で、さらに、そこから始まる考察にも驚きがあります。


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 父親が収監され、母親が蒸発し、子どもたちが施設に預けられ、無人となったその部屋だが、その後も悪臭や害虫の苦情が何度もくり返され、マンションの管理会社の立ち会いのもとで、自治会の方が合鍵でその部屋の扉を開いた。
 そこで見たのは、家具も何もない、からっぽの、きれいな部屋だったという。

 単に、階下の住民が何かを勘違いしただけなのだろう。真相も何もはっきりしない、特にドラマチックなこともない、ただこれだけの話だが、それにしても、自分では見てない、話に聞いただけの「からっぽの部屋」のイメージが、妙にいつまでも印象に残っている。
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単行本p.60

 一家離散のあと残された無人の部屋。そこから発生しているという強烈な悪臭と大量の害虫。扉を開けてみるとそこには……。誰もが想像する「物語」が、すこんと外されたとき、私たちが直面する戸惑いは何なのか。世界を認識するために私たちが共有している様々な「物語」の「外」への想像力について考えます。


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 先日、ある地方議会で、男性議員からの、女性議員に対するとても深刻なセクハラヤジがあり、メディアでも大きく取り上げられて問題になっていたが、そのとき印象的だったのは、ヤジを飛ばされているちょうどそのとき、その女性議員がかすかに笑ったことだった。
 あの笑いはいったい何だろうと考えている。
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単行本p.94

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 少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(中略)
どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの、ひとつの象徴的なあらわれである。そしてそういう自由は、被害者の苦しみのなかにも、抵抗する者の勇気ある闘いのなかにも存在する。
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単行本p.98、101

 心底絶望したとき、あまりにも傷つき、辛いとき。虐げられ、差別され、抑圧された人々が浮かべる妙に明るい薄笑いや不謹慎な自虐ジョークについて考えます。


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 ずっと前に、バスのなかから一瞬だけ見えた光景。倒産して閉鎖したガソリンスタンドに雨が降っている。事務所のなかの窓際に置かれた大きなユッカの木が、誰からも水をもらえず、茶色く立ち枯れている。ガラス一枚こちらでは強い雨が降っている。そのむこうで、ユッカは、乾涸びて死んでいた。
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単行本p.132

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 ヤクザとなって逮捕され、そのまま異国の刑務所で十年を過ごす、ということがどのようなことなのかを、ときおり思い出しては考えている。この十年という時間の長さは、どのようにすれば理解できるだろうか。時間の長さを理解する、ということは、どういうことだろうか。
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単行本p.134

 バスのなかから見えた一瞬の光景。聞き取り調査で話された内容。「他者が体験した膨大な時間を想像すること」の畏怖すべき困難さと、おぼろげな可能性について考えます。


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 壁を越えることが、いろいろな意味で暴力になりうることを、私はもっと真剣に考えるべきだった。しかしまた、壁を越えなければ、あの女子学生をふくめて、私たちは、私たちを守る壁の外側で暮らす人びとと、永遠に出会わないまま生きていくことになってしまう。ほんとうに、いまだにどうしていいかわからない。
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単行本p.186

 他者を理解しようと踏み出すとき、その一歩が、相手に対する暴力となり得ることの恐ろしさ。マイノリティに対する恐怖や不信を克服するためのマジョリティ側の行動が、マイノリティ側を脅かし傷つけ抑圧するかも知れない矛盾。社会というものの根っこにあるジレンマを、目をそらさずに見つめます。


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 ずっと前に、ネットで見かけた短い文章に感嘆したことがある。こう問いかける書き込みがあった。カネより大事なものはない。あれば教えてほしい。これに対し、こう答えたものがいた。カネより大事なものがないんだったら、それで何も買えないだろ。
 おお、これが「論破」というものか、と思った。
 私たちの人生が、もし何よりも大切な、かけがえのないものであるならば、それを捨てることができなくなる。
(中略)
 さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。
 ひとりの手塚治虫は、何百万人もの、安定した確実な道を捨ててマンガの世界に自分の人生を捧げるものがいて、はじめて生まれるのである。
 だから、人生を捨ててなにかに賭けるものが多ければ多いほど、そのなかから「天才」が生まれる確率は高くなる。
(中略)
いつも私の頭の片隅にあるのは、私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。
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単行本p.195、199

 ネットで見かけたやりとりから、人生は無意味でくだらない、というまさにそのことにこそ希望があるのではないかというパラドックスについて考察します。


 他にも様々な「断片的なもの」が取り上げられ、考察されています。決して安直な結論に飛びつかず、迷い悩みながら、「他者への想像力」を手がかりに、社会学と哲学が交差する領域を歩いてゆく。そんな本です。

 結論はなく、何かをきっぱり断言してくれるわけでもなく、読んでも感動したり涙がこぼれたり自分を大切にしようと思ったり生きてゆく勇気が湧いてきたりする本ではありませんが、答えを出すことで何かを解決するためでなくただひたすらに考え続けてみたいという方にはお勧めします。


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『読めよ、さらば憂いなし』(松田青子) [読書(随筆)]

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 本はどうしてこんなに素敵なものなんだろう。読んでいる間も、手に取り表紙を眺めている間も、しみじみそう思ってしまう。どこにでも持ち運べるし、ページを開けば別世界に連れて行ってくれる。装丁も一冊、一冊工夫されているので、家の本棚に良い装丁の本が並んでいるのを見ると、気持ちが満たされる。
(中略)
 いろんな人が、いろんなタイミングで面白い本にどんどん出会えたらいいなと思う。苦しい時、悩んでいる時、世界に違和感を覚えた時、どんな時も本は必ず側にいてくれる。本は最強の友人である。
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単行本p.189、190

 『スタッキング可能』『英子の森』の著者が、大好きな本と映画について熱っぽく語る第一エッセイ集。単行本(河出書房新社)出版は2015年10月です。


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どの瞬間も本を読んだ。音楽を聴いた。映画を見た。自分を見ないために、今の自分の現実を見ないために、私はあこがれを集め続けた。あこがれまみれの私は、いつまで待ってもフィクションの世界みたいにならない現実にイライラし、現実に呆れたまま年を重ねた。自分の夢は小さな頃から小説家か翻訳家で、そうでない自分と自分の現実に興味が持てず、目を背け、やる気がないまま三十歳になろうとしていた。
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単行本p.127


 書評と映画評を集めたエッセイ集です。全体の2/3が読書まわりの話題で、残りが映画という分量になっています。書評といっても堅苦しい雰囲気ではなく、むしろ気心の知れた友人に自分が好きな本を熱心に勧めるような感じ。好きだ、嬉しい、という気持ちがぐいぐい伝わってきます。


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 時間があまりない時は、オアの出てくるところを重点的に読み直す。私の本には、オアの出てくるパート専用の付箋が貼ってある。オアのことが一番好きなのだ。(中略)この先もずっと、この小説が読まれ続け、たくさんの人がヨッサリアンのように、オアに出合えたらいい。
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単行本p.114、117


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見慣れた日常がそれこそリンスをされたように、キラキラ輝いて見える。この世に存在するすべてのものが新たな輪郭を持ち、目の前に現れる。それに、自信がなかったことや誰も同意してくれなかったこと、今まで誰も教えてくれなかったことを、ああ、やっぱりこれで良かったんだと思える。例えば、特別なものじゃなくても、どんな小さなものでも、あなたが好きなら、どんなものでも好きで良いし、すごく好きで良いのだ、とか。
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単行本p.134


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腹が立った時とかそれこそ誰かにナメられた時には(人って本当に人をナメる生き物!)、私は必ずこのマンガを読む。私のかわりにギーコがチェーンソーを振り回してくれる。タランティーノの『デス・プルーフ』や、アルドリッチの『カリフォルニア・ドールズ』でしか上がらないテンションがこの世にあるように、『血まみれスケバンチェーンソー』だけが晴らすことのできる気持ちがこの世にはある。
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単行本p.140


 お気に入りの本だけでなく、読書それ自体の素晴らしさ大切さをストレートに訴えてくるエッセイも多く、読書好きなら誰もが共感することでしょう。そう、そうなんだよ、と。


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「どんな人もこれを読まずに育ってはいけない、と本屋が教えてくれたものばかりです」
 リンさんからプレゼントされた本を読みながら成長したポーリィは、最後に、読書で培った知識と機転と想像力で、ある戦いに臨むことになる。『九年目の魔法』は、読書という行為の面白さ、大切さについて書かれた本だ。「魔法」とは、「読書」のことなのだ。(中略)『九年目の魔法』に出合った日から、私はいつも、誰かのリンさんになりたいという気持ちで書いている。
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単行本p.188


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「小説を読むということは、その体験を深く吸いこむことです」とアーザルは授業で生徒たちに言うのだが、小説を読むことで、彼女たちは自分の体験を客観視することができ、そして過酷な現実から逃げることもできた。読書によって自らの尊厳を守った女性たちのこの圧倒的な物語を読むと、すごく心強い気持ちになる。きっと彼女たちの勇気と強さを深く吸いこんだからだ。
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単行本p.83


 こうあるべき、そういうことをしてはいけない、そういうのは普通じゃない。何かというと押し付けられてくる理不尽な規範から逃れて、自分の人生を自由に好きなように生きる。そのために、読書が、特に女性にとって、どれほどの勇気と洞察とパワーを与えてくれるかを切実に語ります。そうするうちに、話題は、必然的に、フェミニズムへと。


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「だれかと恋人同士になるとき、よろこびの陰で、性別があることによって人類がくり返してきたことに自分もまた飲みこまれるのか、という苦しさがいつもつきまとっていたことを思い出す」という箇所には、私の中にも確かにこの苦しみがあったことに驚かされた。
 ページをめくればめくるほど、星や光のようなきらきらしたもので体の中が満たされ、うれしい事実に気づかされる。心を解放し、自由に生きるということは、自分にとってだけでなく、世界にとっても良いことであるのだと。
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単行本p.67


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「母、フェミニズムに出合う」「母、韓流にハマる」、この二つのムーブメントを、私は別個の出来事としてとらえていた。それが『さよなら韓流』を読んだとき、一本の糸でつながった。そうだったのか!! と目が大きく開く思いだった。韓流とはフェミであったのだ。韓流にハマった女たちの日々がいかに「自信と幸福」に満ちたものだったのか私は知らなかった。
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単行本p.14


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 上の世代であるほど、フェミニズムが「ヒステリックな女たちが言い出した面倒なもの」「お堅くて退屈なもの」扱いされていたときを体感していて、フェミニストだと公言しにくいのではというのはなんとなく感じてきたことだ(特に日本だと)。96年生まれのタヴィ・ゲヴィンソンを筆頭に、そういう時代の空気感を実際に経験していない若い女の子たちがフェミニズムに興味を持って調べてみたときに、フェミニズムってクールだ、面白い、これは私もやりたいと思うのならば、それがフェミニズムの本来の姿であるはずだ。そして彼女たちにそう感じさせた、これまで戦ってきたフェミニストたちは決して間違っていなかったという証しでもある。
(中略)
 フェミニズムはクールで楽しくて、情熱を感じることができて、もっと手軽に日常に取り入れることができ、日常を変えることができるものだ。女も男も関係なく、誰もが自分らしく暮らすことができる、新しい世界をつくろうとする明るい意志のことだ。
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単行本p.249、250


 というわけで、大好きな本、読書ということ、そしてそれが自分らしく生きるためにどれほど大切かを熱く語ったエッセイ集です。『スタッキング可能』や『英子の森』を読んでそのクールさにシビれた読者、大好きな本についてあふれる想いを語り合いたい方、そしてフェミニズムとの距離感に迷っている方、特に若者にお勧めします。読めばいっぱい本を買ってしまう、呼び水のような一冊。


タグ:松田青子
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『スピンクの壺』(町田康) [読書(随筆)]

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「貧乏の子。毎日、洟たれてみっちゃんみちみち。駅弁の高価に驚きて、見上げればおばんのふんどし。女なんてさ、女なんてさ、嫌いさ、詳しくはWEBで! 北海河童のにぎりずし、ベトベトやんかいさ、詳しくはWEBで! 結局、なんでもWEBか? いえいえ、なにしろのろまな小僧なんで。なにしろのろまな小僧なんで」
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単行本p.211


 シリーズ“町田康を読む!”第49回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、町田家の飼い犬であるスタンダードプードル犬のスピンクが、家族と日々の暮らしについて大いに語るシリーズ、『スピンク日記』『スピンク合財帖』に続く第三弾。単行本(講談社)出版は2015年10月。

 日記、合財帖ときて、今回は壺。『つるつるの壺』とは関係ありません。いつもの通り、犬のスピンクが飼い主であるポチ(人間名=町田康)や他の家族との生活について語る楽しい連作エッセイです。


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 なにをやっても失敗ばかりしているポチ。バーベキューをして失敗し、レストランに出掛けて失敗し、自宅を購入して失敗し、リフォームをして失敗したポチ。というか、人生そのものが無惨な失敗であるポチ。可哀相なポチ。
 すっかりポチが気の毒になったので私は、元気を出せ、という意味で、ワン、と太い声で吠え、後ろ足で立ちあがって、前脚でポチの胸にドン突きを食らわせてやりました。
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単行本p.24


 『日記』の頃は生後数か月の仔犬だったスピンクも、今や立派な成犬になっています。これまでの人生を振り返って、スピンク談。


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 ありとあらゆる悪事に手を染めました。しかし、そういったヤンチャが許されるのはやはり四歳か、せいぜい四歳半くらいまでです。四歳ちょっと過ぎにそれに気がついた私はそうしたことの一切ときっぱり手を切りました。というと少し違うかな、まあ、いまでもときどき羽目を外すことはないわけではありません。
 しかしやはり、昔のように見境がない訳ではなく、自分で、やばいな、と思ったらやめますし、美徴さんに言われたら即、やめます。ポチの場合はケース・バイ・ケースですけどね、括弧笑。
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単行本p.46


 そんなスピンクとポチの楽しい生活はこんな感じです。


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「熱いのが、熱いのが値打ちなのだ。グラターン料理は。ああ。びばのんのん。ああ。びばのんのん。おまえたちがそうやって廊下でバカのように狂い回っているとき、本来であれば僕には飼い主としてそれをとめる義務がある。ところが僕はこんなバカな格好で固まってしまっていて、それができない。ああ。びばびば。こんなバカなポーズで固まっている無力な僕を許してくれ。ああ、びばのんのん。熱いのが値打ちなのに、熱いのが値打ちなのに、ゆげがてんじょからぽたりとせなかに」
 と言うポチは、興が乗ったのでしょうか。「熱いのが値打ちなのに」と何度も叫び、徐々に歌うような調子になっていきました。私はますます愉快な気持ちになり、ドウッドウッドウッ、と吠えながら走り回りました。シードも同様です。ポチも泣き叫んでいます。
「熱いのが値打ちなのに、熱いのが値打ちなのに、ぽたりとせなかに」
「ドウッ、ドウッ、ドウッ、ドウッ」
「キャンキャン、キャンキャンキャンキャン、キャン、キャンキャンキャンキャン」
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単行本p.106


 能天気にポチに懐いているスピンクですが、町田家にもらわれてくる前にひどい扱いを受けてきたキューティやシードは、彼らをシニカルな目で見ています。スピンクに対して、二匹は次のように語って聞かせるのです。


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私は疎んぜられるのが悲しくて吠えました。したところ殴られ蹴られ、痛いので吠えると、もっと殴られました。そして私はクレートに閉じ込められ放置されました。ご飯も貰えませんでした。散歩にも連れ出して貰えず、ずっとクレートにおりました。お腹が空いて、吠えても誰も来ず、なんだか闇雲な恐ろしさで頭がいっぱいになってなにがなんだかわからなくなりました。でも苦しみと恐ろしさはなくなりませんでした。(中略)大勢の犬が死にました。誰のせいで死んだのでしょうか。
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単行本p.118


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「ほらね。飼い主なんてのはそんなもんなんだよ。結局、僕たちを買ってきて自分の都合のいいときだけ可愛がって都合が悪くなったら殺すんだよ。そして毎日を楽しく生きていくのさ。映画を見たり、外食産業というところに行ったりな。ワイハというところに行く奴もいる。その間、犬は苦しみと悲しみのなかで苦しんでいるんだすよ。ばはははは、そんな飼い主の言うとおりにしてごらんなね。命なんてものは幾つあっても足りませんわ。(中略)あはははははは。あほほほほほほ。君はあの主人・ポチを信用できるのか。あのカッパを。マッハGOGOGOの歌を歌いすぎてクルマを岩にぶつけるような粗忽な男を。朝から晩まで愚にもつかぬたわごとを書き散らし、書きすぎてバカになってしまった男を」
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単行本p.119、122


 というわけで、スピンクだけでなくキューティやシードも語るシリーズ第三弾。犬好きの読者にお勧めです。猫エッセイも続けてほしいです。


タグ:町田康
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『SFマガジン2015年12月号 《SF Animation × Hayakawa JA》』 [読書(SF)]

 隔月刊SFマガジン2015年12月号は、《SF Animation × Hayakawa JA》ということで、ハヤカワ文庫からノベライズが刊行されているSFアニメを特集。また、パオロ・バチガルピ、シオドラ・ゴスの読み切り短編が翻訳掲載されました。


『終末を撮る』(パオロ・バチガルピ、中原尚哉:翻訳)
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 ルーシーが口述を再開した。途中でフェニックス市街を振り返る。しかしティモは口述内容を聞く必要はなかった。どんな記事になるかわかっている。この大都市で日常生活を送る人々。彼らはまだ知らないのだ。すべてが変わってしまったことを。
 ティモは撮りつづけた。
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SFマガジン2015年12月号p.254

 水資源の枯渇。水利権をめぐって内戦状態に近づいている近未来の米国、アリゾナ州で、命綱たる人工水路が急に枯れたことに気づいたジャーナリストとカメラマンのコンビ。大きな危機が迫っていた。長編『神の水』の前日譚。


『ビューティフル・ボーイズ』(シオドラ・ゴス、鈴木潤:翻訳)
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 これまでの調査では、〈ビューティフル・ボーイ〉は人間の男性と同じ手順で交尾し、繁殖することがわかっている。聞き取り調査によれば、彼らはどうやら恋人としては人間の男性より優れているということだ。もっとも、データによる実証はされていない。
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SFマガジン2015年12月号p.335

 人類に紛れて繁殖するイケメン型エイリアン。その抗いがたい魅力で人間の女性の心をつかみ、妊娠させて去って行く〈ビューティフル・ボーイ〉たち。彼らはどのような種族で、いつごろから地球にいるのだろうか。

 エイリアンの存在に気づいた女性科学者は、彼らの生態を明らかにするべく研究を進めるが、研究対象にあっさり逃げられてしまう。電話番号も嘘、経歴も嘘、愛のささやきも嘘。でも、「彼」は異星生物だから仕方ない。彼女に残されたのは、お腹にいる彼の赤ん坊だけだった。

 それ本当にエイリアンの侵略なの? それともヤリ逃げ男に棄てられた女性の妄想? どちらともつかないまま大真面目に〈ビューティフル・ボーイ〉たちの生態を学術的に解説するところがユーモラス。彼らは大学を中退してレンタルビデオ店でバイトしていることが多いとか、29歳以上のサンプルが見つからないから短命だと思われるとか、メガネっ娘は体臭をかぐだけで彼らを鑑定できるとか。


タグ:SFマガジン
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『春の祭典』『アンリ・ミショーのムーヴマン』(カンパニー・マリー・シュイナール) [ダンス]

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人々はその饗宴のために3万年前から、思いつく限りの装身具、歌、神仏、舞踊をあみ出してきました。親愛なる皆さん、私もそのひとりです。饗宴のために絶えず喜びをもって創りつづけています。けれど奇妙なことに、バリエーションが静寂から生まれるのをただ単に見届けるときにも私はおなじ喜びを見出すのです。
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マリー・シュイナール


 2015年10月25日は、夫婦と知人の三名でKAAT神奈川芸術劇場に行って、カンパニー・マリー・シュイナールの二本立て公演を鑑賞しました。10名のダンサーによって踊られる上演時間35分の作品が二つ、途中休憩20分を合わせて、全体で90分の公演です。

 『春の祭典』はマリー・シュイナールの代表作の一つ。何も置かれてないシンプルな暗い舞台上、スポットライトが当てられたダンサーがひとしきり奇天烈なダンスを踊っては去ってゆく、そして次のダンサーにスポットライトが当てられる、その繰り返し、という、驚くほどシンプルな構成です。

 かなり変な動きが多い、というか、尋常な動きの方が少ないくらい。ニジンスキー牧神ごっこで足をかくかくかくかく、身体中に長いトゲを装着してウミウシゆらゆらゆらゆら、そのトゲを自分の額と股間から生やして腰をへこへこへこへこ、長いトゲを指につけて開いたり閉じたりしながら横歩きカニごっこかにかにかにかに、鳥が首を前後にふる動作をひょこひょこひょこひょこ、ジャンプしては空中平泳ぎをりぴーとりぴーと、とまあ、そんな、人外の動きだらけです。

 何だか、とてつもなくふざけた、滑稽なことを、大真面目にやっている気がします。最初は戸惑うのですが、何しろ30分以上も見続けているとだんだんハイになって、あれ真似して踊ってみたい、などと感じるようになっていきます。ダンスの衝動。頭と股間に角を生やして前方突き出した腰をひょこひょこ動かして、はるサイ。

 『アンリ・ミショーのムーヴマン』は、フランスの詩人・画家であるアンリ・ミショーの詩画集『ムーヴマン』をモチーフにした作品。舞台背景のスクリーンに『ムーヴマン』に掲載されている絵(抽象化された人間のポーズと動きらしいのですが、筆で描いた「書」にも見えます)が投影され、ダンサーがひとりひとり舞台上に歩み出ては、その「絵」を身体で表現します。

 というかこれ、日本のコンテンポラリーダンスカンパニー「コンドルズ」の演出で、スクリーンに投影された影絵を手前のダンサーが無理やり真似して観客を笑わせるという、あれを30分やり続けるようなもの。

 『ムーヴマン』の詩(テキスト)については、床に敷いてあるシートをめくってその下に潜り込みながら、マイクを握って朗読(というか絶叫)するという。最後はストロボ効果をばりばりに使って、「静止画で表現された動き」の再現に挑みます。

 ロールシャッハテストにも似ている「ムーヴマン」(動き)を実際に身体で動いて表現してみる。ひねりも何もなく、解釈するとかコンセプトを読み解くとか小賢しいことを考えず、ひたすら形と動きを無理やりにでも真似してみる。「絵」をモチーフにしたダンス作品数多いなかで、これほどストレートな振付は珍しいのではないでしょうか。

 これも最初はアホらしさに戸惑うのですが、次第にそのひたむきさというか、やりたいからやってみた、もっとやりたいからもっとやってみた、というダンスの根源のようなものを見せつける舞台に、ある種の感動を覚えるようになってきます。考えるな、感じろ。そして動け。


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