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『七月のひと房』(井坂洋子) [読書(小説・詩)]

――――
露草の青い花冠にスズメ蜂が一匹
日課のように渡ってくるが
あの針ほどの空間に 圧縮されて
原宇宙は入っている
――――
『わたしに祝福を』より


 無からやってきた億万の/偶発の色/たくらみの色。輝きと激しさをはらむあらゆる色彩が紙面に浮かび上がる生彩詩集。単行本(栗売社)出版は2017年1月です。


――――
花は長い間忘れていたことをふと思いだして咲く
忘れてしまうと咲かないという
それが何であったか
花の色は告げているかもしれないが
解読できない
さまざまな色合いをただうつくしい調和と思うだけだ
無からやってきた億万の
偶発の色
たくらみの色か
――――
『未遂産』より


 読んでいて、紙面から浮き上がってくるようなその色彩に圧倒されます。文字の連なりから様々な色がそれぞれのちからを持って立ち上がる。刹那の赤、永遠の青。


――――
壮大な夕日が
巨人がゆっくり倒れていくように沈む
それから
巨人が目を開き
あたりが赤く染まる
――――
『空の鏡』より


――――
遠い島影があおくかすみ
海鳥が灰色の羽をたたんで
透明な入り江に浮かぶ
束の間の午睡
水平線が子どものかいた絵のように一本空色だ
こんなところにいられない、と娘は
きりきりと出ていった
それをぼんやり見ているのは
木立に囲まれた丘の上の
くずれかけた墓石
走り続けた時間の 四角い顔
――――
『意地悪な春』より


 そして黄や緑のイメージが、活き活きと広がってゆきます。


――――
クリーム色のつる薔薇の上に黄蝶がとび
一瞬ごと忘れ果てる 空の頭を
うれしそうにはためかせている
放縦というものは
罪がない
――――
『誕生は偶会』より


――――
いつも思うことだが
バスに揺られるいくつかの頭と
里芋の葉は 音符のようだ
根と切り離されて
リズムをとっている
――――
『七月のひと房』より


 黄は一文字だけ、緑にいたってはまったく明示されていないのに、それぞれの色が鮮やかに「見える」のは、いったいどういうことなのでしょうか。そして、無彩色のちから。


――――
オレンジや巨峰やリンゴ、銀河系の惑星同士の軌道のサイクルか
ら、はぐれた星々が落下し、素焼きの皿に積まれている。それら
を描いた静物画を、隅々まですべて白く塗りつぶす無名の女性画
家のその作品は、ありふれた海岸の白浜から水が引いて、二度と
打ち寄せることなく、浜のみが白濁している。
――――
『やわらかな手』より


――――
黒いマドンナ像
と癌
老いたからだの中に
育つ
ふたつの黒への信仰

黒こそ ゆきつく色であり
闇にまぎれぬ黒が点在している
――――
『薄は光らない』より


 様々な色が虹のスペクトルとなって、ふたたび刹那と永遠を彩ります。


――――
向こうの杉の木から
蜘蛛のながい糸が渡される
雨にもめげず 虹色に光る 一撃を溜めている
エモノを狙う罠は美しい
――――
『シー ウォズ ベルベット』より


――――
丸い橋の上の街灯のつらなり
背後の森が黄緑の手を伸ばす
ほんとうの
彼ら自身は色をもたない
橋にたたずむ黒猫の
長い毛足にも光があたり
闇の奥にたくさんの小さな虹ができる
――――
『旅だてば』より


 色の美しさ激しさ、それを短い文字だけで喚起させる言葉の力。まるで絵画を見るような色彩感あふれる詩集です。



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『造りの強い傘』(奥村晃作) [読書(小説・詩)]


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些事詠んで確かなワザが伴えばそれでいいんだ短歌と言うは
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ホームランそれも場外ホームランのようなドデカイ歌が詠みたい
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万葉の蟹が哀しくうたう歌 万葉人も蟹を食ってた
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所得税累進課税の最高が七〇%の時代があった
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正面から見るとやっぱし違うわな一味違うシェパードの顔
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 特に何ということもない当たり前のことをあえて詠む「ただごと歌」の第一人者による、ただごと歌集。単行本(青磁社)出版は2014年9月です。


『桜前線開架宣言』(山田航)より
――――
 現代短歌の中には「ただごと歌」と称されるジャンルがあって、特に何ということもない当たり前のことを短歌にしてしまうというものである。奥村晃作という1936年生まれの歌人が主な標榜者で、橘曙覧など江戸時代に生きた歌人たちの伝統を受け継いだものと主張している。
――――
単行本p.10


 だから何? という反応を気にするそぶりも見せず、あえて詠む。「ただごと歌」の妙味を味わうことが出来る歌集です。

 わざわざ五七五七七で表現するまでもなく、日記かブログに書いときゃいいじゃん、というような「ただごと」をあえて短歌にする、その「あえて短歌にした」というところに、その心意気のようなものに、何だかメタな抒情を感じます。


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所得税累進課税の最高が七〇%の時代があった
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信号の〈緑の人〉は自らは歩かず人を歩き出させる
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放置せしわが自転車を請け出しぬ四千円を区に支払って
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参加した皆が失格するなんて それってないよね今年のSASUKE
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 「ただごと」のなかには、ふと気づいた「発見」というべきものも。


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綱引きの綱作る人居るわけで年間なん本作るのだろう
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屋根の上のテレビアンテナ眺めつつ大変だなあ電気屋さんも
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万葉の蟹が哀しくうたう歌 万葉人も蟹を食ってた
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正面から見るとやっぱし違うわな一味違うシェパードの顔
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 「いいね」狙いでツィートすりゃいいじゃん、というような発見が多いのですが、それでも「万葉人も蟹を食ってた」とか「正面から見るとやっぱし違うわな一味違う」とか、不思議と心に残ります。

 個人的に気に入ったのは、夏を詠んだ作品。


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局地的豪雨頻発、激烈な竜巻二回、猛暑日続く
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リモコンのボッチを指で押すだけで部屋はたちまち涼しくなりぬ
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クーラーがサーモスタットが働いて夜通し二十七度を保つ
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熱帯夜なれども器機が作動して朝まで眠る 器機よありがとう
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近頃のキュウリ形は良いけれど切ってるときの匂いが薄い
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 やたら「クーラーって涼しくていいよね」と感動しているのが妙に可笑しい。他に、「食べる」という行為を身も蓋もなく表現した作品にも心惹かれます。


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竹串を尾から突き刺しまだ動く海老に塩振りバーナーで焼く
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トゲいまだ動くウニの身スプーンですくい食うなり、五〇〇円なり
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生卵肉に掻き混ぜ紅ショウガ添えて吉野屋の牛丼を食う
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 そして、歌人としての素直なつぶやきを「ただごと」として提示する作品。


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帯・カバー外し〈新刊歌集〉読む二度目はうしろの頁から読む
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ホームランそれも場外ホームランのようなドデカイ歌が詠みたい
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些事詠んで確かなワザが伴えばそれでいいんだ短歌と言うは
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 「些事や日常生活のなかに見つける非日常的な瞬間」を見つけるのも詩歌なら、そんなもの見つけないぞ吉野屋の牛丼くうぞ卵もかけるぞというかたくなさもまた詩歌に成り得る。詩歌の広がりと可能性を感じさせる「ただごと」歌集です。



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『SFが読みたい! 2017年版』 [読書(SF)]

 今年もやってきました、昨年のベストSF発表。今回も、自分がどれだけ読んでいたか確認してみました。2016年におけるSF読書の結果です。ちなみに、今回から国内篇、海外篇とも上位30冊がリスト化されています。

 国内篇ベスト30のうち読んでいたのは6冊、海外篇ベスト30のうち読んでいたのは8冊。総計して、2016年のベストSF60冊のうち14冊しか読んでいませんでした。ヒット率23パーセント。これは過去最低の成果なので、今年はもう少し真面目にSFしたいと思います。いや、まじでやばい。

 ベストSFまわりの記事以外では、「上田早夕里全作品解題」(渡邉利道)が凄かった。文字通り上田早夕里さんの全作品についての紹介で、これから読もうと思っている方のための読書ガイドとして最適。他に、宮内悠介さんや伊藤典夫さんへのインタビュー記事など。

 恒例のサブジャンル別ベスト10&総括では「クラシックSF」が新設されており、昨年に出版された古典SFの新訳版などの総括が行われています。何しろ、昨年の新刊というのが、エリスン、ティプトリー、ヴァンス、スラデック、バラード、ケイト・ウィルヘルム、ヴァーリィ、コードウェイナー・スミス、ベイリー、ハーバート。『人類補完機構』に『デューン』ですからね。「今は一体何年だよって話ですね」(「SFが読みたい!の早川さん」より)

 あと、表紙の「好きなものに順位をつけるなんてくだらんと思います」にはインパクトがありました。SFマガジン2016年12月号表紙の「それを12月に教えられても!!」に続く自分ツッコミのネタですが、この路線はここまでにしておいた方がいいのではないか。

 参考までに、ベストSF2016のうち私が読んでいた作品について、読了後に書いた紹介をリストアップしておきます。これから読もうかと思っている方に参考になれば幸いです。


2016年10月06日の日記
『夢みる葦笛』(上田早夕里)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-10-06


2016年09月27日の日記
『スペース金融道』(宮内悠介)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-09-27


2016年06月13日の日記
『彼女がエスパーだったころ』(宮内悠介)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-06-13


2016年07月12日の日記
『アステロイド・ツリーの彼方へ 年刊日本SF傑作選』(大森望、日下三蔵:編集)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-07-12


2016年03月31日の日記
『アメリカ最後の実験』(宮内悠介)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-03-31


2017年01月23日の日記
『ヴィジョンズ』(大森望:編集)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-01-23


2016年12月05日の日記
『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』(ピーター・トライアス)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-12-05


2016年02月25日の日記
『叛逆航路』(アン・レッキー)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-02-25


2016年05月17日の日記
『あまたの星、宝冠のごとく』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-05-17


2016年02月10日の日記
『ガンメタル・ゴースト』(ガレス・L・パウエル)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-02-10


2016年09月08日の日記
『蒲公英王朝記 巻ノ一 諸王の誉れ』(ケン・リュウ)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-09-08


2016年09月12日の日記
『蒲公英王朝記 巻ノ二 囚われの王狼』(ケン・リュウ)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-09-12


2016年04月21日の日記
『ラグランジュ・ミッション』(ジェイムズ・L・キャンビアス)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-04-21


2016年04月26日の日記
『ロックイン -統合捜査-』(ジョン・スコルジー)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-04-26


2015年12月11日の日記
『世界の誕生日』(アーシュラ・K・ル=グィン)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-12-11



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『人間性剥奪』(両角長彦) [読書(ファンタジー・ミステリ・他)]


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「私も職業柄、人間と呼ぶには首をかしげざるを得ないような人たちを大勢この目で見てきました。しかしその誰も、あなたには及ばない。まるで人間性をそっくり誰かの手で剥ぎ取られたかのようだ」
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単行本p.257


 中学校の教室内で起きた凄惨な無差別毒殺事件。だが事件が起きる前から、その教室では何かが進行していた。やがて皮肉にも「人間性」を名乗る犯人が、大規模テロの犯行予告を送りつけてくる。テロを防ぐためなら、未成年者をマスコミの餌食にするような非道も許されるのだろうか。『ラガド 煉獄の教室』でデビューした著者が、ポスト真実の時代に合わせ再び煉獄の教室に挑むサスペンスミステリ。単行本(光文社)出版は2016年6月です。


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「破壊願望、テロ願望は、程度の差こそあれ、誰でも持っているものさ。人間であればな。そう、人間だけが、いま自分の住んでいる世界を破壊したいという願望を持っているんだ。これは他のどの動物にも見られない、人間だけの特性だ」
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単行本p.138


 中学校で発生した無差別毒殺事件。給食に毒物が投入されたのは教室内の可能性が高い。捜査を開始した警察は、その教室では事件前から何か異常な事態が進行していたことに気づく。生徒も、教師も、それぞれ何かを隠している。だが、その実態を解明することは極めて困難だった。


――――
 学校の教室の実態というものを知ることはきわめてむずかしい。過去、日本各地の学校で事件が起きるたびに、警察は生徒や教師に対して聴取をおこなってきたが、成功した例は皆無と言ってよい。それほど教室というのは閉鎖的であり、外部からはうかがい知ることのできない空間なのだ。
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単行本p.77


 やがて「人間性」を名乗る犯人から、大規模テロと思われる「最終行動」の犯行予告が送りつけられてくる。「最終行動」を中止してほしければ、教室内で行われていたことの首謀者をマスコミの前で公開謝罪させろ、というのだ。


――――
〈人間性〉は逮捕されない。『最終行動』は予告通り実行される。これが、かなりの確率で現実になるであろうシナリオです。すでに、都内から地方へ脱出する人が続出してるんですよ。『最終行動』が起こるのが都内だと決まったわけじゃないのに。
 みんな不安なんです。〈人間性〉がどこにいるのか、何をしようとしているのか、わからないからです。『わからない』ほどこわいものはありません。
――――
単行本p.162


 しかし、仮にその子が例えば「いじめ」の首謀者だったとしても、未成年者をテレビ出演させ公衆の面前で謝罪させる、などといった非道が許されるだろうか。逆に、もしも謝罪しないまま実際に「最終行動」が起きて犠牲者が多数でたとしたら、生徒や学校にどれほどの非難が集中することか。

 迫るタイムリミットのなか、必死で「人間性」を探す警察。「人間性」はどこにいるのか。いや、そもそも「人間性」など本当にあるのだろうか。私たちに。


 というわけで、中学校の教室内における「支配構造」のようなものが、社会全体にパニックを引き起こすサスペンスミステリです。事件の舞台、展開、登場人物の配置など、明らかにデビュー作『ラガド 煉獄の教室』を意識した作りになっており、真相や犯人の最後のセリフも含め「ポスト真実」時代に合わせてリニューアルした『ラガド』という印象を受けます。



タグ:両角長彦
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『となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代』(内藤正典) [読書(教養)]


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いまや世界の人口の四分の一にあたる十五、六億人がイスラム教徒なのです。近い将来、三人に一人がイスラム教徒になる、とも言われています。
 このことは、イスラム教徒とかかわらずに生きていくことが、もはやできないという現実をあらわしています。
(中略)
イスラムから学ぶことはたくさんあります。とくに、日本人がいま直面している高齢者の介護や子育てといった問題で、吸収すべき知恵は数知れません。
 また、安全保障や治安の観点、もっとひろげて平和のためにも、イスラムと「戦う」という選択肢より「共存を図る」ほうが、人類史のレベルにおいて、はるかに大きな恩恵が生まれるにちがいありません。
――――
単行本p.4、6


 近い将来、人類の3人に1人がイスラム教徒になると予想されている。西欧世界とは異なる価値観を持つ隣人たちとうまく共存し、世界にこれ以上の衝突と惨禍を広げないようにするためにはどうすればいいのか。教義や歴史よりも実際のイスラム教徒がどんな人々であるかに焦点を当て、イスラムに関する基礎知識と共存のための知恵を学べる好著。単行本(ミシマ社)出版は2016年7月です。


――――
 イスラムの場合、さきほども触れましたが、根本的に私たち、あるいは近代以降の西欧世界で生まれた価値観とは相入れないところがあります。そこばかりに注目するなら、イスラム世界と西欧世界は、対立し、衝突し、暴力の応酬におちいってしまいます。それをどうしたら避けられるか、ここのところも考えなければなりません。イスラム世界と西欧世界とが、水と油であることを前提として、しかし、そのうえで、暴力によって人の命をこれ以上奪うことを互いにやめる。そのために、どのような知恵が必要なのかを考えなければなりません。
 そういう願いを本書に込めました。
――――
単行本p.7


 現代イスラム地域研究を専門とする社会学者である著者が、予備知識のない読者を対象に、非常に分かりやすくイスラムについて解説してくれます。

 宗教としてのイスラム教とその歴史についての解説書は多いのですが、本書の特徴は、何十年もかけて現地で行った調査をもとに、実際のイスラム教徒のありのままの姿を描き出すことに主眼を置いていること。もう一つの特徴は、「腹を割って話せば、互いに分かり合える」といった甘い話で誤魔化さないで、根本的な価値観の対立がどこにあるのか、なぜ暴力の応酬という悲惨な状況から抜け出せないのか、という構造を明らかにし、その上で共存の道を探ろう、とする姿勢です。

 全体は終章を含めて八つの章から構成されています。


「第1章 衝突は「今」起きたわけではない」
――――
 度が過ぎたリベラルというのも、異文化との共生を破壊する危険性をもっています。ドイツやフランスの場合、伝統的に外国人嫌いは極右の主張でしたが、いまや、ヨーロッパ各国では、ナショナリズムに寄りかかって外国人排斥を叫ぶのではなく、俺たちの文化を守る自由を認めてくれ、イスラムという宗教から離れて暮らす自由だって認めろよ、というかたちで排外主義を叫ぶようになっているのです。
――――
単行本p.36

 イスラム世界から欧州各国に移民してきた人々の再イスラム化、高まる反ムスリム感情と排外主義、これらが生み出す対立と暴力の連鎖、といった悲劇的な構造を、主にイスラム教徒移民の視点から読み解いてゆきます。


「第2章 イスラム教徒とは、どういう人か」
――――
 イスラム教徒と三十数年つきあってきましたが、イスラムの本質というのは、教科書的な説明の中にあるのではなく、「儲かったときには自分の才能で儲けたなどと思うな」というように人間のおごりをいましめ、弱い立場の人を助けるところにあるように私は思います。(中略)困っている人が目の前にいたら、彼らは必ず何かをします。どこまでできるかは人によります。しかし、何もしない、ということはない。
 それがイスラムする人――ムスリムなのです。イスラムが何かということを知るより、イスラム教徒とはどういう人なのか、そちらを先に知ることのほうが大事だと思います。
――――
単行本p.68

 成功しても失敗しても本人の責任にしない、困っている人がいれば助ける、子供とお年寄りを大切にする、他人を国や人種で分け隔てしない。実際のイスラム教徒がどういう人々なのかを紹介してくれます。


「第3章 西欧世界とイスラム世界はもとは同じ」
――――
 ヨーロッパとイスラム世界との違いは、いろいろありますけど、ひとつ言えるのは、「イスラム世界へ行くとだらっとできる」ということです。私はそれを実感しています。妻もイスラム圏に入った途端に、なぜかほっとすると言っています。
(中略)
 もちろん、ドイツでもフランスでも人が困ったりしていたら助けてくれます。でも、なんと表現したらいいか、人と接するときにひとりひとりがどこか身構えている……。自分は「個」として生きているという肩肘張った感覚。そういうふうに身構えないと暮らせないところに長くいると、やはり疲れてしまいます。
――――
単行本p.87、94

 西欧世界とイスラム世界の歴史的関係を解説しつつ、皮膚感覚レベルで両者を比較します。


「第4章 となりのイスラム教徒と共に」
――――
 そういうことを商売にするハラール・ビジネスというのは、イスラム教徒ではなくても、実に傲慢なことだと思います。イスラムをよく知らない日本人をおどして金をとっているようなものですから賛成できません。
(中略)
 イスラム教徒と仲良くする一番の方法は、「正直であること」です。中途半端な理解で、高いお金を出してハラール認証をとることではありません。
――――
単行本p.114、116

 日本にやってきたイスラム教徒をもてなすとき、何に気をつければいいのか。ハラールや飲酒についても解説されます。


「第5章 ほんとはやさしいイスラム教徒」
――――
敬虔なイスラム教徒であろうと、行動がかなりイスラムから逸脱したイスラム教徒であろうと、弱者を助けなければという思いについては、ほとんど差がありません。
 このことは、イスラム教徒とつきあうときにも大切な点です。かりに酒も飲んでいるし、もう世俗化したんだろうと見えるようなイスラム教徒がいたとしても、その人がイスラムを捨てたと思ってはいけません。
(中略)
 彼らに「イスラム教徒でなくなるってどういう感じですか?」と聞いたときに返ってくる言葉。どんなに世俗的に見えるイスラム教徒でも決まってこう言います。
「人間でなくなる感じがする」
 ここは、見誤ってはいけないところです。
――――
単行本p.149、150

 前章で紹介した飲食に続いて、祈り、ラマダン、弱者救済、そして性的なことに関する対応について解説されます。


「第6章 日本人が気になる12の疑問」
――――
イスラムの社会と西欧の社会は水と油なのか。この点に関して言えば、そのとおりなのです。
 しかし、水と油であることは、お互いを傷つけあうこととは別です。イスラム教徒ではなく、そして、イスラムと西欧とのあいだにこれ以上の衝突をふせぐことを考え続けてきた私は、傷つけあうこと、殺しあうことを止めるための知恵を生みださなければならないと感じています。同時に、それがいま、途方もなく難しくなってきたとも感じています。
――――
単行本p.179

 裁判制度、一夫多妻、女性差別、同性愛の禁止、イスラム銀行、ヴェールの着用。誤解されることも多いイスラム社会の仕組みと、その背後にある価値観を解説します。共感でき学ぶことも多い一方、現代の西欧社会からは受け入れることが出来ない価値観の相違もある、ということを具体的に教えてくれます。


「第7章 イスラムの「病」を癒すために」
――――
 西欧的な進歩主義は唯一無二の正しい道だという思い込みをもたないことです。イスラム世界は、イスラムの価値観の上に立って歴史を積み重ねてきたのです。西欧の進歩主義をものさしにして、彼らイスラム教徒の人たちの価値観を「遅れた状態」と見なすことだけは、間違ってもやってはいけない。そもそも、イスラム教徒の人たちの価値観が「遅れている」と言えるのでしょうか。
 その西欧こそ、今の中東・イスラム世界をずたずたに分割して線引きをし、植民地として支配したことを忘れてはいけません。英国やフランスには、今でも、彼らを啓蒙してやるために植民地にしたのは正しかったなんて言う人がいます。極端なことを言えば、こういう発想が「イスラム国」を生みだす原因のひとつだったとも言えます。
――――
単行本p.217

 「イスラム国」に代表される過激派の台頭、内戦、クーデター、弾圧。秩序が崩れてゆく中東・イスラム世界と、深まる西欧社会との対立。何がどうしてこのような事態になってしまったのかを振り返ってゆきます。相いれない価値観を前に、「殲滅すべし」という発想も、「啓蒙して同化すべし」という発想も、いずれも対立を深刻化させるだけだということが強調されます。


「終章 戦争、テロが起きないために私たちができること」
――――
深夜の密航が、死の航海になるかもしれないことに気づいていたとしても、彼らはしっかりと前を向いていました。途方もない苦しみの果てにたどりついた、打ちひしがれた姿ではありませんでした。そのことが私を打ちのめしました。これだけの惨禍の中にあって、決して誇りを失わない姿に言葉を失ったのです。
 人道の危機の連鎖。内戦で家族を奪われ、生きる場所も奪われ、隣国にたどりついても安心も生計の手段もなく、最後の希望をヨーロッパに託して、彼らは海を渡ろうとしていました。
――――
単行本p.238

 内戦、難民、テロ、イスラム教徒に対する排斥と暴力。憎しみと恐怖の連鎖が止まらない世界の現状について、探るべき共存への道について、現場から考えます。



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