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『大阪的』(津村記久子、江弘毅) [読書(随筆)]

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 そういうわけで、地方に行って、東京の人でも大阪の人でもない人と話すと、なぜか大阪の反省点のようなものが勝手に見えてくるようになったのだった。これは実は、仕事で東京と行き来する中では一切見えてこなかったものである。東京の人と話したり、東京で過ごしたりする分には、自分は「ありのままの大阪人」というなんだか迷惑な字面の生き物でいて結構、と思い込んでいたのだが、大阪でも東京でもない場所に行くたびに、大阪の欠点のようなものが思いだされるようになった。具体的に言うと、大阪つまらんと言い続けてきたけど、それは「住んでいるから」というエクスキューズなしにつまらん場所なのかもしれない、という危機感をはらんだ感情である。別にわたしが大阪の危機を憂おうと誰も気にしないわけだけど。
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単行本p.7


 大阪とは何か。大阪てなんやねんほんま。故郷である大阪を内と外の両方から見てきた作家と編集者が、大阪的なるものについて大いに語りあう一冊。単行本(ミシマ社)出版は2017年3月です。


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このへんの、「なんだか変なところでおとなしい」という感じは、大阪の次女っぽい部分を象徴しているのではないかと思う。長女には対抗意識がある。なんだったら自分のほうが美人やしと思っている。個性もあると思い込んでいる。でも本当は、六女や七女みたいに自由ではないし、個性もない。そのことはつゆ知らず、上ばっかり見ているうちに、どうでもいいところでは口数が多くてうざがられてるのに、見た目は誰かの真似で結局無難なだけになってしまっている。
 大阪は、自分で思っているほど美人でもないし、個性もないし、ましてや自由ではない。
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単行本p.17


 というわけで、生まれも育ちも大阪という二人による、大阪に対する屈託あふれる対談とエッセイをまとめた本です。全体は四つの章から構成されています。


「1.大阪から来ました」
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 長女へのコンプレックスを持った次女。自分は姉より美人だと言い聞かせながらも、どこかで姉の影響を振り切ることができない。姉のことをさしてかまわないという態度をとりつつ、わたしお姉ちゃんに似てる? とときどき誰かにたずねている。
 おばちゃんはあるいは、お姉さんのほうが美人やねと言われたことをずっと根に持っているのかもしれない。ときどき夜中に思い出して泣いているのかもしれない。
 わたしの大阪のイメージは、そういう屈託を持った女の人たちである。かわいいところもあるけどたまにめんどくさくて、めんどくさいけど料理がうまいので、ついつい話を聞いてしまう。
 でももう、そろそろ「お姉ちゃんのほうが美人やね」と言われたことは忘れたっていいと思うのだ。なぜならもう、人口では横浜市に抜かれてしまったのだから。日本の第二の都市ですらないんだよ大阪は。実は次女じゃなかったんだよこれが。
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単行本p.22

 津村記久子さんによる大阪エッセイ。大阪の、主にあかんとこを、ずけずけ指摘しまくります。


「2.どこで書くか、大阪弁を使うか問題」
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江 もし僕、慶應とか立教とか行ってたら、たぶんファッション誌なんかやってて、ごっつぅうっとうしい編集者になってたと思いますよ。もう、お洒落なだけのね。

津村 自分はすごい大阪におることを売りにしてるし、働いてたことも売りにしてるし、大阪で書き続けることも売りにしてる。今度は大阪に居ながら大阪じゃないとこに行って大阪人として振る舞って、もらってくるものも売りにしようとしてて、貪欲やなって思います。

江 いや、今僕なかなかええ質問した。それはね、なかなか言われへんことですよ。

津村 いやいや。

江 ほんまやって。自分わかってへんのとちがいますか。
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単行本p.51

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談。大阪という土壌が仕事に与える影響などを語り合います。


「3.大阪語に「正しさ」なんてない」
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 船場の商売人が話す言葉や北新地の古い花柳界、あるいは文楽や落語などの上方伝統芸能に携わる人々の言葉遣いが、正統的な大阪弁だとよく言われているが、それは間違いだと思う。大阪語あるいは大阪弁を話すこととは、東京の山の手言葉を「標準語」として措定し、誰もが「学校で教育され制度化された言葉」を話すこととは違う。大阪語に「正誤」なんてないし、「正しさ」を求めてもおもろくも何ともない。
(中略)
大阪弁というのはそれが「現に話された」現場と、そこから電車で一時間以内ぐらいの距離にあるところのそれぞれの違った「○×の大阪弁」があり、例えば阪神や阪急、京阪、近鉄や南海といった土地柄の違いによる「母語」の違いみたいなものをハッキリ区別できるのが、大阪語(関西語)話者の共通点である。それが大阪弁のテロワール(代替不可能な土壌)なのであろう。
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単行本p.67

 江弘毅さんによる大阪エッセイ、というか大阪弁エッセイ。大阪弁と土地との結びつきについて学術的に語ります。


「4.世の中の場所は全部ローカルだ」
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津村 高校の友だちがニューヨークに嫁に行ったんですけど、(中略)その子に「トランプってヅラなん?」って話をしたら、そんなん旦那にも友だちにも聞けないって言うんですよ。大阪の人やのに。絶対にその子、ヅラかどうか確かめてくれると思ってたのに。(中略)これが大阪の人だったら聞けるじゃないですか。「これはニューヨークに染まってしまったな」と思った。本当にヅラかどうかはわりとどうでも良くて、みんなヅラだと思ってるのかどうか、ってことを聞きたかったんです。

江 大阪のやつってヅラとか言うの好きやからな。俺もそんなん好きです(笑)。

津村 (中略)私は大阪におるから、トランプ見て「ヅラかな」とか言ってるけど、友だちはニューヨークに行ってヅラかどうかなんて聞けない雰囲気になる。どっちがいいかって言ったら、私は「ヅラかな」って言い続けたいと思いますけどね。

江 「邪魔じゃハゲ!」とか言うもんな、僕ら。ハゲてなくても七三分けでもハゲやもんな。
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単行本p.84、85

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談の続き。大阪から見るグローバルとローカル、というテーマなんですが、ほぼ雑談に。


 以下余談。

 昨日の日記(http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-04-04)で紹介した『関東戎夷焼煮袋』(町田康)のなかに次のような一節があります。


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 津村記久子という大阪に住む小説家に、「京都に住まおうと考えたことがあったが、うどん玉が七十八円もして絶望、断念した。自分はうどん玉が四十円以下で買えぬ地域に棲むことはできない」という話を聞いたことがある。
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『関東戎夷焼煮袋』(町田康)単行本p.19


 ところが、本書の対談中、次のような発言が出てくるのです。


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江 津村さん、スーパーでうどんが三十円の土地にしかよう住まん、みたいなこと言ってはりましたよね。それがめちゃくちゃおもろくって。

津村 京都のね、友だちが下宿してるとこの近くでうどんがひと玉四十円して、びっくりしたんですよ。
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単行本p.81


 はたして京都のうどん玉は七十八円なのか、四十円なのか。津村記久子はうどん玉ひとつ三十円の土地にしか住めぬのか、それとも四十円以下ならOKなのか。さらに、この矛盾の原因は町田康の記憶違いなのか、それとも津村記久子が相手によって話を変えてるのか。

 おそらくこの問題はいずれ日本文学研究における一大論争テーマとなるであろう。将来のために、ここであえて指摘しておくものである。



タグ:津村記久子
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