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『まぬけなこよみ』(津村記久子) [読書(随筆)]

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まぬけな人が一年をぼんやり過ごしている、というコンセプトで、約三年の連載を編集担当さんに迷惑をかけながらやりおおせたわけなのだけど、読み返してみると、まぬけであるのと同じぐらい、昔のことを思い出しているな、という印象がある。(中略)
 特に、父方の祖母について文章を書くのは、たぶんこれ一度きりになるのではないかと思う。
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単行本p.296


 二十四節気/七十二候に関するテーマを毎回ひとつ選んで書かれた連載エッセイ。単行本(平凡社)出版は2017年4月、Kindle版配信は2017年4月です。

 歳時記をテーマとした『くらしのこよみ』のまぬけ版、という趣旨で連載されたエッセイなのですが、個人的には、ご自身の過去について詳しく書かれていることが要注目でした。

 津村記久子さんの子供時代や学生時代については漠然としたイメージを持っていたのですが、よく考えてみればそれらは『まともな家の子供はいない』や『ミュージック・ブレス・ユー!!』といった小説から勝手に作り上げたもの。では、実際にはどんな子供だったのでしょうか。


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 わたしの小学校低学年における記憶の二割ぐらいは、ぶらんこ関係のことだと思う。ぶらんこが楽しかった。何々ちゃんはぶらんこをよく押してくれてとてもありがたい人だった。ぶらんこから落ちて膝を擦り剥いた。ぶらんこから落ちて真下に埋まっていた石で頭を打った。ぶらんこの近くで遊んでいてぶらんこ自体で頭を打った。(中略)わたしにとっては、ぶらんこをリラックスしてこぐなんて、時間の無駄でしかなかった。ぶらんこに乗ったからには、いつも本気だった。
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単行本p.105、106


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 帰り道に花を食べる友人の正体も、ぜひ知りたかった。わたしの記憶の中の彼女は、永遠に小学一年で、前世はチョウかミツバチだったんじゃないかというほどの手練れだった。不意に断たれた物心がつく前の友情は、いつまでも美しく、そして不思議だ。
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単行本p.127


 「自分の人生には無用に思える」「思い出したくないこと」「できれば通過せずに子供時代を過ごしたかった」「「嫌い」ではなく「うんざり」」などと率直に語られる父親のこと。そして祖父母のこと。両親の離婚と引っ越しのこと。様々なことが語られています。

 学生時代の話としては、何といっても高校受験の話題が印象的です。


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高校の私立の試験に落ちたら死のうと思っていた。本当に思っていた。二月のはじめの頃に受けた私立は、すべり止めの高校で、本命ではなかったものの、だからこそ深刻だった。極端なことを言っているようだけれども、同じ考えだった人はけっこういると思う。(中略)これに落ちたら死のう、と思っている試験なので、それはもうたくさんのことを覚えている。
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単行本p.52、53


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その日は卒業式だからもういい無礼講だ、という理由で塾を休み、友人の家の近所の公園でドッヂボールをしていた。式典のことはぜんぜん覚えていないくせに、この時の様子や気持ちははっきりと思い出せる。あんなにちくしょうと思いながらボールを投げていたのは、あの瞬間以外ない。もういい、何もかもいい、自分は数日のうちに死ぬ、受験に落ちて死ぬ、だから今は思い切り遊ぶぞうおおお。その「遊ぶ」の象徴が公園で球技。しかし、その後先のないプリミティブさが、わたしとしては本質的な意味での「遊ぶ」であった。
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単行本p.78


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 わたしと友人たちは、サルのように遊びまくった。中学を卒業させられ、受験の本番もまだ(すべり止めには受かっていたが、本当の集大成ではない)という状況で、我々には明日などないとばかりにボールを投げ、ぶつけまくり、よけまくった。わりと簡単に、明日はないなと思うのだけれども、あの時ほどやけになったことはない。なので本当に、歌などに歌われる情緒的な卒業など糞食らえだと思っていた。受験のことばっかり考えていたが、もうこの日ばかりはと塾を休んでギャアギャア言いながらドッヂボールをする。このやけくそ感がリアルな卒業なのであるし、今もそう思っている。
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単行本p.78


 他には、何かが好きだ、という話題にはインパクトがありました。例えば、じゃがいも。


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幼稚園の時に連れて行ってもらったマクドナルドのフライドポテトに始まり、このお肉でもケーキでもない食べ物は、さして主張しないわりにどうにも魅惑的だ、と小学生の時に考え始め、茹でてもよし、レンジでふかしてもよし、ぐずぐずにつぶしてもよし、というユーティリティ性、塩をつけただけでもおいしく食べられる手軽さに安心感を覚え、お肉やケーキが高くて買えなくなる日が来ても、じゃがいもだけはきっと裏切らないだろう、と思いながら生きてきた。ただじゃがいもをよく食べていそうという理由だけで、自分はドイツ人に生まれるべきだった、と悩んだ時期もあった。
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単行本p.95


 しかし、本当に心を打つのは何といっても「ふとん」への愛でしょう。


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 仕事が終わって朝方にふとんに入ると、幸せと安堵のあまり、なんだかわけがわからなくなってきて、ざまみろ的な気分になって、ヒヒヒヒなどと言い出す。会社員だった頃は、帰宅してカバンを下ろし、部屋着に着替えると同時に突っ伏し、「今日も帰ってきたよぅおおぉ」だとか「いつもありがとうございますぅう」などと訴え、しまいに、「ふーとーん、ふーとーん」と枕を叩いてふとんコールをしていた。どうかしているのだが、それがなんだというのだ。
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単行本p.252


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 ふとんにぐるぐる巻きになるのがとにかく好きだ。ちゃんと端っこから自分を巻いていく。そして頭の方のをちょいちょい丸め込んで、完全にふとんの中に入ってしまう。自分がふとんになったような気がする。もしくは、巻き寿司の具、もしくは、まるごとバナナのバナナになった気がしてくる。しかし、やはり決定的な「ふとんぐるぐる巻きの自分」のセルフイメージは、ミノムシかと思われる。わたしはふとんの暗闇の中で、「…………」と口を開ける。一応生きてはいるのだが、微動だにしない。「…………」。何もしない。何も考えない。幸せである。やがて外側から見た、わたし自身を丸めこんでしまったふとんを想像する。それこそが真の姿であるように思える。ふとんの中に包まれている自分こそが、完全体であるような気がしてくる。普段のわたしは、仮の存在に過ぎない。本当はわたしは、ミノムシなのである。
 そういうわけで、人類の中では比較的、ミノムシを意識して生活しているほうだと思う。
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単行本p.250


 読んだとき「わかるわかる」と共感したのですが、書き写しているうちに、いやそこまでは……、と自分の心が引いてゆくのを感じました。

 という感じで、季節や歳時と暮らし、昔の思い出、好きのこと嫌いなこと、などが書かれてゆきます。ほとんどが「まぬけな人が一年をぼんやり過ごしている」というコンセプトに沿ったのんびり脱力エッセイですが、ときに鋭い言葉が胸に刺さることもあって一筋縄ではいきません。


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 それにしても、心とはいったいなんなのだろう。どんなはたらきをするのか。悲しむものか、喜ぶものか。悼むものか、勝ち誇るものか。わたしは、突き詰めると、人間の中の世界が通り抜けていく場所、そうして捕まえた光のようなものを記憶して攪拌し、反射する場所を心というのではないかと思う。言うなれば、中村一義が〈1、2、3〉で歌った「光景刻む心」が、バスク人のサイクルロードレーサーであるアントンの中にもあって、それが彼に「何か天国のようなもの」を見せたのである。わたしには、そういうことを知る体験が、心というものが他者の中にも存在するということを実感する端緒であるように思える。
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単行本p.280



タグ:津村記久子
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