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『誰でもない』(ファン・ジョンウン、斎藤真理子:翻訳) [読書(小説・詩)]

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 ファン・ジョンウンの狩りは激烈で切実だが、リリシズムとユーモアの補給線が途切れることはない。彼女は、人々の物語が湯気をたて、血をしたたらせている瞬間をねらい、暴力ののっぴきならなさと喪失の大きさを、一撃でしとめる。彼女の筆は仮借ない。しかしこの仮借ない作家が隣国にいてくれることは、私を心強くさせる。彼女の小説を読むことは、微細な暴力の粒子が溶け込んだこの世界、日常とディストピアが地続きになった今を歩き続けるために必要なエネルギーを私たちに与えてくれる。
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単行本p.253


 途方もないストレスを抱え、容赦なく他人を踏みつけることでかろうじて生きている人々。苛烈な格差社会のなかで、誰でもないものとして扱われ、ささいなことで互いに傷つけあい憎しみ合いながら生きる他はない私たちの姿を、切り裂くようなリアリティと激しいまでの詩情をこめて描く短篇集。単行本(晶文社)出版は2018年1月です。


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「誰でもない」人々の現実は、まぎれもなく二十一世紀の韓国のものだ。だが、人物の名前などは無国籍風で、ときには性別も判然とせず、具体的な地名もあまり出てこない。彼女の作品世界は韓国に根ざしながらも、同時に全方向に向かって開かれており、世界のどこにでも通じる、ときに古典のような趣を感じる。(中略)このような普遍性をたたえた彼女の小説が今後、日本だけでなく、世界の「誰でもない」人々のもとに届くであろうことを信じる。
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単行本p.252、253


 ますます格差が広がりつつある社会。その下層のあたりで、這い上がる手段も希望も奪われ、互いに足を引っ張り憎みあいながら、ただただ搾取され続ける人々の苦しみ、怒り、絶望、そしてかすかな希望。現代に書かれた多くの小説が扱っている、いわばありふれたテーマですが、しかし本書に収録された作品は格別です。傑作としか言いようがないものばかりで、その出来栄えはもう衝撃的。一つ一つの作品が、心を切り裂いてきます。

 見ないように、想像しないように、心に刺さらないように、注意深く目をそらしていた現実に容赦なく向き合わされる瞬間が次々と訪れます。しかし、なぜか、読後感は意外に暗くなく、むしろ不思議な「肝の据わった」ような感触が残る話が並びます。ハズレも凡作も一つもない、とてつもない短篇集。とにかく何がなんでも読んでほしい一冊です。


[収録作品]

『上京』
『ヤンの未来』
『上流には猛禽類』
『ミョンシル』
『誰が』
『誰も行ったことがない』
『笑う男』
『わらわい』


『上京』
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誰かが私の腕をとんとんたたいた。老婦人が私の顔をしっかりと見て、言った。
 泊まってけ。
 ごはん、やるから。
 誰か助けてと思って見回したが、オジェもオジェのお母さんも荷物の確認で忙しい。何と答えたらいいのかわからず立ちすくんだあげく、つぎに来たとき泊まりますと言った。幾重にも重なって渦巻きになっためがねの中で、老婦人の目が悲しそうに歪んだ。
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単行本p.40

 知り合いの家族といっしょに、田舎に唐辛子摘みに出かけた語り手。特に何か事件が起きるわけでもなく、なにげない描写の積み重ねが、見捨てられた田舎とそこで生きる他ない人々の現実を、少しずつ浮き彫りにしてゆく。


『ヤンの未来』
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 何をしたかって私に訊かないで。誰も私にかまわないのに、なんで私が人のことにかまわなくちゃいけないの? チンジュね、おばさんの娘、あの子がいったい誰だっていうの? 誰でもないのよ。私にとっては、誰でもないの。
 そんなことはひとことも言えないまま私が彼女を見おろして口をつぐんでいるあいだ、セミが鳴いていた。ひぐらしのシルルルルルルという声だけが聞こえた。降り注ぐ陽差しのせいで、首筋が熱かった。
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単行本p.71

 深夜、娘が殺された。コネも金もない若い娘が殺されたくらいで警察はろくに捜査もしない。最後に被害者を目撃した語り手は、あのとき通報しなかったことを後悔し続けている。そして被害者の年老いた母親が現場に毎日やってきて、祈り続ける。無言で責められているようでいたたまれない。忙しかった、ひたすら疲れていた、こづき回され踏みつけられ人として扱われない生活のなかで、他人のこと見て見ぬふりをしても仕方ないじゃないの。でもそんなこと言えない。言えるはずがない。引きちぎられるような苦しみ。そして男の上司が、すごーく気軽に、語り手に命じる。営業妨害だからあの母親に出てゆくように告げろ、と。
若い女性が社会からどのように扱われているかを静かに告発する強力な作品。


『上流には猛禽類』
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こういうところに来たらこんな水ぎわでごはんを食べるものだよと、元気いっぱいの表情で食べ物を渡し、ことばをかけてくれていたチェヒの両親も、だんだん口数が減っていった。チェヒはほとんど食べなかった。顔がまっ青で、お母さんがおにぎりを差し出して早くお食べと言うのに、何ともいいようのない表情で両親を見つめており、そんな彼の表情を見ていると私は心が痛んだ。それは何て変な光景だったことか。妙な場所に陣取ってごはんを食べている老夫婦と、そのかたわらで憂鬱そうに彼らを見守っている若い男、そして彼らから離れて座っている女。
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単行本p.99

 恋人の家族といっしょにピクニックに出かけた語り手。いつかこの家族の一員になるのだと信じていたが、小さな出来事の積み重なりが、溝の深さを次第にあらわにしてゆく。家族のなかにあってもひとりひとり孤独で、その現実から目をそむけようとする人々、厳しい歴史のなかで傷つけられた人々の姿を、陰鬱なユーモアをこめて描いた作品。


『ミョンシル』
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 こうやって座ったまま、あと何度の冬を迎えることになるのだろう。そして何度の春と何度の夏を。彼女は考える。死んだあともシリーに会えるという思いが、なんて手におえない想像であるかを。なんて手に余る、空しい思いであるかを。そして空しいながらにそれは、なんて美しかったろう。それが必要だった。すべてのものが消えてゆくこのときに。暗闇を水平線で分ける明かりのようなもの、それがあそこにあるという、しるしのようなものが。
 その、美しいものが必要だった。
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単行本p.130

 もう寿命も尽きようとしているとき、亡くなった恋人のことを考え続ける老婦人。二度と会えないと分かっていながら待ち続けることの、何という空しさ、そして美しさ。彼女は書き始める。すべてが消えてゆくこのときに。圧倒的な感動をもたらすラブストーリー。


『誰が』
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 私、お金ないもん。やんなっちゃうけど、いまお金ないし、ひょっとすると永遠にないんだもん。だからまあ、手段がないのよ私には。私の未来なんてあっさりあのじいさんみたいに……なるはず。そんな予感がするし、予知もできるぐらいだわ、そんなときにあんたらみたいな人間に苦しめられてさ……あんたらみたいなお隣さんに悩まされてさ……そうやってずーっと……生きてくんだ。あんたら、自分は違うと思ってんでしょ? 違うと思ってるし、実際違ってる感じがするんでしょ? だけどねあんたらと私、何も違わないんだよ、完全にいっしょだよ、おたがいがおたがいのお客さまなのさ、そうやって苦しめ合うのさ、一生、百パーセントのお客さまなんかでいられないくせに。こういうの私、嫌でしょうがないのよ、なのにあんたらにはこれがぜーんぶ冗談みたいで、あたしだけが狂ってると思って、おかしいんでしょ? 笑いな、おかしいなら笑ってな。おかしかったら笑えばいい、ずーっと笑ってたらいいわ、ずーっと笑ってな、もっともっと、笑ってみな。
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単行本p.156

 社会階層を昇る手段もなく、ただ搾取され踏まれる毎日。安アパートの隣人との間で、通勤の駅で、職場で、どこでも軽んじられ、ストレスをぶつけられる女性。自分たちは頭おかしいおばさんとは違うし人生の成功は約束されていると信じて、ノリで嫌がらせをしてくる若い娘たち。どうせすぐ同じ境遇になるのに。社会の仕組みがそういう風になっているのに。たまりゆくストレスに堪え続け、毎日が限界ぎりぎりで生きる女性の姿を苦々しいユーモアも込めて切実に描いた作品。


『誰も行ったことがない』
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 彼は急に口をつぐんで振り向き、彼女を見た。彼女が悲しそうな顔で彼を見ていた。彼はまた怒りがこみあげてきて、首を横に振った。あの顔。うんざりだと言うかわりに、そんなに見るなと彼は言った。そんなふうに見るな。人を観察しないでくれよ。何も悪いことをしてないのに殴られたみたいな目で。
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単行本p.184

 かつて子どもを事故で失った老夫婦。そばにいたのに気づかなかった夫は、そのことで負い目を感じつつ、いつまでも無言で責めるような妻の態度に腹もたてている。それからずっと関係がぎくしゃくしている彼らが、海外旅行に出かける。だが、旅先で知らされたのは、韓国が通貨危機によって事実上の経済破綻をしたというニュース。子ども、未来、そして今や帰るべき祖国まで喪失した二人。喪失感とともに旅を続ける老夫婦に、さらなる危機が訪れる。


『笑う男』
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 長いあいだ、僕はそのことについて考えてきた。
 考えて、考えて、なんとかして最後には理解したいと思って、僕はこの部屋にとどまっている。ずっと前、この部屋の外で僕の背中をたたき、僕を理解できると言った人がいるのだが、それが誰だったかわからない。その人の名も、どうやって出会ったのかも、その人が僕にとって大切な人だったかそうでなかったか、男だったか女だったかさえ思いだせない。夜だったということははっきりしている。私はあなたを理解できる。まっ暗なところでそのことばを聞いた瞬間、僕はえっと驚いた。この人が理解できるという僕を、僕はなぜ理解できないのかと。
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単行本p.189

 過去にあった出来事のせいで、世捨て人同然の生活を続けている男。自分はあのとき、なぜそうしたのか。あるいはなぜそうしなかったのか。ひたすら自問自答する毎日。祖父、父、恋人、男が抱えるトラウマに関係する人々のエピソードを積み重ね、個人とそして社会が抱えている絶望と希望を描き出す作品。


『わらわい』
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 ……笑ってますね。画面の中で私が笑ってるわ。あの口見てごらんなさい、あれはわらわいですね、見えます? なんであんなに笑うんだろ……狂ってるわけでもないのに。狂った女は笑うね、私がいままでに目撃した狂った女はみんな笑っていましたよ。ところでさ、なんで人間は狂うと笑うんでしょ。答えてみてよ。いったいぜんたいどうして笑うのかしら、狂ったら。泣く方が当然よね、狂ってるんだから。狂ったら怖くなるはずでしょ。狂うということは、殻がすっかり壊れてしまって、中身がむき出しになってしまうことで、中身がむき出しになった人間は怖いでしょうからね何もかもが。世の中は角と尖端でいっぱいなんだから。世の中はこんなに、とんがったものや角ばったものだらけなんだから、怖いものだらけなんだから、泣くべきでしょ、怖かったらさ。なのにどうして笑うんだろ、狂った女は。
 あなたはどんなふうに笑いますか。
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単行本p.241

 理不尽なクレーマー、同僚から向けられる憎悪と敵意、理不尽な謝罪、ぱっとしない客のみみっちい自尊心を満たすためのドゲザ(とてもべんりな日本語)、そして笑顔。何をされても言われても、笑顔を忘れないように、笑顔を絶やさずに。デパートの寝具売り場で接客業をつとめる女性が、自尊心も尊厳も奪われ、激しいストレスのために笑顔が止められなくなってしまう。コネも金もない人々が就くしかない過酷な感情労働、その果てに常軌を逸してゆく女性をサイコホラー風に描いた強烈な作品。



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『片づけたい』 [読書(随筆)]

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 ていねいに暮らしを積み重ねるネオ清貧と、マネーを武器にハイクラスな毎日を送る拝金ニューエイジ。どちらにも、エクストリームな信念が必要です。(中略)信念のない私は、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしながら生きてきました。一貫性のないインテリアを見渡すと、がっかりはするものの居心地はそこそこ良い。結局は、いろんな味が盛りだくさんの、お手頃幕の内弁当のような暮らしに充足を感じます。この部屋こそが、わたしの理念の現れなのでしょう。ていねいな暮らしは、他の人に任せます。
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『ていねいな暮らしオブセッション』(ジェーン・スー)より


 「ていねいな暮らし」に憧れるけど、掃除はイヤ。
 「すっきりした部屋」は素敵だけど、片づけはイヤ。
 「断捨離」はやりたいけど、捨てるのはイヤ。
 古今の作家たちが、整理整頓・掃除・廃棄にまつわる葛藤を表現したエッセイ・日記・小説など32篇を収録した片づけ文学アンソロジー。単行本(河出書房新社)出版は2017年6月です。


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 本書では、古今の書き手たちのエッセイ・日記など選りすぐりの三十二篇を収録しています。片づけの対象は、紙屑、本、冷蔵庫の瓶詰め、財布の中の割引券から忘れがたき記憶まで、実に様々です。読んですぐに掃除能力がメキメキ上がり、部屋がピカピカになるわけではありません。
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「はじめに」より


 明治の文豪から現代のエッセイストまで、総勢32名の作家たちが、掃除や片づけの面倒くささ、ものを捨てることへの葛藤を、しみじみと語ります。個人的には、『片付けない作家と西の天狗』(笙野頼子)が収録されていればよかったのになあ、と思います。


[収録作品]

『ていねいな暮らしオブセッション』(ジェーン・スー)
『もったいない病』(佐藤愛子)
『エントロピーとの闘い』(柴田元幸)
『シュレッダーと妻の決意』(沢野ひとし)
『紙の山生活』(阿川佐和子)
『お片づけロボット』(新井素子)
『冷蔵庫の聖域』(内澤旬子)
『懶惰の説(抄)』(谷崎潤一郎)
『過ぎにしかた恋しきもの』(澁澤龍彦)
『達磨大師と桃童子』(加門七海)
『塵』(夢野久作)
『ポリバケツの男』(佐野洋子)
『ロボット掃除機ルンバを雇う――キミには“上司力”があるか』(東海林さだお)
『ゴミ処理機』(出久根達郎)
『煤はき』(幸田文)
『障子』(島崎藤村)
『中掃除・小掃除』(沢村貞子)
『ノズルに手こずる』(川上未映子)
『「掃除」と「片づけ」は別物です』(有元葉子)
『片づけ』(川上健一)
『割引券の出番は少ないと知る』(大平一枝)
『「秩序のある机まわり」が教えてくれること』(松浦弥太郎)
『掃除当番』(槇本楠郎)
『二十年目の大整理』(有吉玉青)
『新聞紙』(向田邦子)
『座辺の片づけ』(内田百聞)
『捨てる派』(中澤正夫)
『それぞれの几帳面』(赤瀬川源平)
『思い出のリサイクル』(小川洋子)
『猫の耳そうじ』(工藤久代)
『片づけごと』(尾崎一雄)
『もっと光を!』(池内紀)


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 私はだんだん気が滅入ってきた。はじめのうちは、「あ、ちょっと待って。Aさん、それ使うのよ。捨てないで」といっていたが、たび重なるといえなくなってきた。
 Aさんは捨てたいのだ。捨てる快感を求めてAさんは勇んで手伝いに来たのかもしれない。それをいちいち阻止するのは気の毒である。気の毒ではあるが私はそうポイポイと捨てられたくない。この二律背反が私をして気を滅入らせしむるのであった。
(中略)
 ここはわたしの家だ! 私のものだ!
 私は叫びたい。Mさんは目を伏せ沈痛な面持ちになっている。
「先生、これ、とっときました」
 小声でいってゴム輪をしまっておいた小箱をこっそり見せる。私たちはいつか、敵の手に落ちた敗軍の将と忠実なる従卒という趣になっているのであった。
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『もったいない病』(佐藤愛子)より


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 この会社員の貯めたゴミは重さにして650キロだったが、1979年、シカゴに住む67歳の女性が貯め込んだゴミは総量10トンに及んだ。『週刊プレイボーイ』79年11月20日号によれば、悪臭の苦情を受けた衛生局の係員が行ってみると、家じゅう高さ1メートル半のゴミの山。1940年代にはじまる古新聞、キャベツを中心とする生ゴミ、無数のビンやカン……下からはベッドが二つ出てきた。この女性、30年にわたり清掃婦として働いたが、帰ると毎日くたくたで、自分のゴミを出す気力はとうてい残っていなかったという。
 だが、物を貯め込むことにかけては、1909年から47年にわたってニューヨークで隠遁生活を送り、総量120トンに及ぶ物品を貯め込んだコリヤー兄弟の右に出る者はいまい。
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『エントロピーとの闘い』(柴田元幸)より


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 銀行へ行って五万円おろしたらちょうど百万円きっちりの残高になっていました。一円の端数もなく、0が六つ並んでいるのに感心しました。で、全部おろしました。0が一個になり実にすがすがしい気分で、私はハンドバッグに百万円入れて、ここへやって来たのです。
 少し前に、男といっしょに遊びに来たギリシアの小さい島です。
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『ポリバケツの男』(佐野洋子)より


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 とりあえず半分だけお尻を便座に乗せて座ってますよと騙し騙し操作してもうまくゆかず、センサーを手で押えても無理、お尻の量をじりじり増やしてトライすること十分、騙されたノズルが顔を出し始めた音を聞いてから便座を飛び退き、目視したノズルの恐ろしいまでの汚さにのけぞってしまったのであった。よよ、となったのはいいけれどそのまま勢いよく飛び出してきた温水で(なぜなのか最強設定になってた、もう!)服も床もびしゃびしゃになって、トイレクイックルでがっと掴んでぬぐってやろうとしても水を出し終えるとノズルはすました顔で引っ込んでしまって出てこない。
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『ノズルに手こずる』(川上未映子)より


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ぼくはわりと几帳面な性格だと思う。ついちょっとしたものを揃えたりする。たとえば財布の中のお札を、ちゃんと表裏揃えて入れる。それが高じて、上下の向きも揃えて入れる。さらには一万円札、五千円札、千円札という順に、高額の順に揃えて入れる。さらに高じると、パリパリの紙幣と皺くちゃの紙幣と、良い順に揃えたりする。さらにそれが高じると、新品の紙幣は隙間なくぴったりなので、一枚のつもりで出したら二枚、ということがある。それを防ぐために、新札ばかりのときは間に少し皺のある札を混ぜたりする。たまたま新札ばかりの場合は、あえて折り曲げて皺を作ったりする。それも、たとえば新札三枚を重ねて折ったんでは皺も同じになって効果がないので、それぞれ少しズラして折り曲げたりして、大変である。
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『それぞれの几帳面』(赤瀬川源平)より


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 近所に一人、世話好きで正義感の強いおばさんがいた。彼女は正しく分別されていないゴミ、曜日が守られていないゴミを発見するとただちに、それを出した人の所へ赴き(町内ではゴミ袋に名前を書くことが義務付けられていた)、お説教をした。私など道でその人とすれ違うだけで、胸がドキドキした。
 彼女の行為は非の打ち所がないほどに正しかった。同じ町内の者として誇りに思わなければならない人だった。しかし、頭ではちゃんとそう理解していたのだが、胸のどこかに何とも言えない複雑な思いが引っ掛かっていた。朝早く、他人の出したゴミ袋をごそごそかき回している彼女の姿を見ると、ふっと心が寒くなるような気持ちになるのだった。
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『思い出のリサイクル』(小川洋子)より



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『去年マリエンバートで』(林和清) [読書(小説・詩)]

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沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
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虫襖といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな
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足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち
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くりかへし見る殺人の夢があるいつもはじまりは発覚の場面
――――
運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
――――
旅がかさなる夢がかさなる目の前の瀧に記憶の水が落ちる
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 嫌な光景、不安な記憶、忍び寄る鬱。心が沈んでいるときの感覚を生々しく伝えてくる抑鬱歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2017年10月、Kindle版配信は2018年2月です。


 まず、うつ状態、およびそれが迫ってくる気配をうたったと思しき作品が、どうにも強烈で、読んでいて苦しくなります。


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沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
――――
陽のあるうちから見てゐる空にひろひろと蝙蝠が闇を殖やしてゆけり
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気がつけば背後ひたひた気配して唐突に荒い息がかぶさる
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冬の雨のなかを走つてくる影ありいつしか人の骨を咬むもの
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見たことのない鬱の景色がかたはらに展けゐてビルの奥の細道
――――
かういふときに人は死ぬのかビル街の黄金の日日の無人の真昼
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 全体的に陰鬱な雰囲気の作品が並びますが、特に、他人および対人関係の嫌なところをストレートに表現した作品に、何というか、へこみます。


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虫襖といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな
――――
夜桜の青い冷えのなか酔ふ女を死にゆくもののやうに見つめる
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人間の廃墟が居りぬ自殺した友の葬儀にうすわらひ浮かべ
――――
人間には他人を死ぬまで傷めつけたい衝動があつて校庭の砂つぱら
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あいつらはペンギンがゐれば腹を蹴りフラミンゴがゐれば首をへし折る
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 なかでも鯉が登場する作品は、かなり嫌ーな感じ。


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ドイツ鯉がぬめつて肌に寄り来ると梅雨の末期の雨を籠りぬ
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足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち
――――
隅田川に逃れたひとは助からなかつた鯉鯉一面の鯉鯉
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 また、悪夢を題材にした作品もけっこう、きます。


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くりかへし見る殺人の夢があるいつもはじまりは発覚の場面
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運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
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夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ
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時間がない車がない自転車の鍵がない! 夢にくるしむ畳寝の朝
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駆けてゐたはずの足はもうすでに水を何度も蹴るしかなかつた
――――
「ダリアが恐かつたあまりに大きくて赤くて爛れてて」過ぎ去つた夏
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 ときに嫌さの表現が、ついついユーモラスになってしまったような作品も。


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善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る
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ご遺骨をダイヤモンドにいたします明日は雨のち雪になります
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もう来ることはない家なのだリビングにチワワわななくわななくをる
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殺伐といふ形容は酷ではないこの路線は人を苛だたしめる
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数件のメールのなかに緊急がひとつある鰐がテラスに来てゐる
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 そして過去の記憶を扱った作品。


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目の端にひつじがゐるよ震へてる生まれたときから見てゐるひつじ
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ちいさいひとがいくにんも座つてゐたといふジャングルジムの鉄の格子に
――――
旅がかさなる夢がかさなる目の前の瀧に記憶の水が落ちる
――――
やり直すことができるかあの午後の亀が眠れる池へ戻つて
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 というわけで、鬱の気配を引き寄せそうで、ちょっと怖い歌集です。



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『ドローンで迫る伊豆半島の衝突』(小山真人) [読書(サイエンス)]

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 近年注目を浴びているマルチコプター(いわゆる「ドローン」)は、GPSなどの衛星測位システムによる自動位置制御のおかげで操縦が簡単な上に、搭載した無線制御カメラを用いて上空のさまざまな方角から地表を撮影できる。このためヘリやセスナをチャーターしなくても自前の航空写真が安価に撮影可能となっただけでなく、有人航空機では不可能だった低空からの近接撮影という未開の領域への扉も開かれた。
 この本では、ドローンを用いてさまざまな地形・地質の特徴をとらえた画像を紹介・解説する。被写体として選んだのは、筆者の主要な研究フィールドである富士山と伊豆半島、ならびにその周辺地域である。
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 地表からはアクセス困難な地形も、手軽に、安価に、そして低空からの近接撮影すらも可能にしたドローン搭載カメラ。この新しい技術を用いて撮影された火山噴火や崩落地形などの臨場感あふれる航空写真を多数収録したサイエンス本。単行本(岩波書店)出版は2017年12月です。


 掲載されているのは富士山と伊豆半島をとらえた航空写真ですが、まず風景写真として美しく、迫力があります。さらに添えられた解説が、地学的に興味深い情報を伝えてくれます。全体は5つの章から構成されています。


[目次]
1 富士山の噴火と崩壊(活火山・富士/山麓に達した溶岩 ほか)
2 伊豆半島の成長と衝突(火山の野外博物館/隆起した海底火山 ほか)
3 荒ぶる火山帯(箱根火山と大涌谷/火山島・伊豆大島 ほか)
4 本州側の隆起と変容(揺れ上がる大地/大地震が起こす巨大崩壊 ほか)
5 ドローン撮影の威力(災害現場でのドローン撮影ー2016年熊本地震の例/海外でのドローン撮影ー英国形成の長い歴史)
付記 国内外でのドローン撮影のためのメモ


「1 富士山の噴火と崩壊」
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 富士山は、およそ10万年前の誕生以来、山頂や山腹の火口からおびただしい量の溶岩を流し続けてきた。それらの溶岩は、時には谷をせき止めて湖を誕生させたり、それまであった湖を埋め立てたりして、麓の地形を大きく変化させた。名瀑をつくり出したり、柱状節理などの美しい造形を生んだ溶岩流もある。
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単行本p.14

 火口、溶岩流の跡、大沢崩れなど、地表からの接近が困難な富士山のさまざまな地形を鮮やかにとらえます。


「2 伊豆半島の成長と衝突」
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 伊豆半島の地表には過去2000万年間の地層・岩石が分布し、本州と衝突する以前の、はるか南方にあった頃からの克明な地質学的記録をたどることができる。
 それらの下部を占める地層・岩石は、海底火山の噴出物とそれらの二次堆積物、ならびにマグマが火山の地下で冷え固まった貫入岩からなる。かつて海底下にあったこれらの地層・岩石は、本州への衝突による隆起と浸食によって、伊豆半島の陸上に広く露出している。
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単行本p.42

 フィリピン海プレートに乗って本州と衝突している伊豆半島。衝突によりつくり出された景観とその地学的意味について解説します。


「3 荒ぶる火山帯」
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 本書ではすでに富士山の2つの山体崩落を紹介したが、それよりもはるかに規模の大きい山体崩落を起こした火山をここで紹介する。八ヶ岳である。
 甲府盆地の北西端にある韮崎付近の台地は、20数万年前に八ヶ岳が起こした熱い岩屑なだれ(韮崎岩屑なだれ)の堆積物でできている。同じ堆積物が甲府盆地の南端でも見つかることから、50km以上の距離を流れて甲府盆地を埋め尽くしたことがわかる。その総体積は100億立方メートルという途方もないものである。
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単行本p.83

 噴火、山体崩落など激しい火山活動の跡が残された地形や風景とその成立過程を解説します。


「4 本州側の隆起と変容」
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 1707年宝永東海・南海地震(マグニチュード8.7)の際に安倍川源流の静岡・山梨県境にある大谷嶺(標高2000m)付近で起きた大谷崩は、1億立方メートルもの土石を流して長さ5kmに及ぶ土石流段丘を形成するとともに、安倍川本流と支流にせき止め湖を誕生させた。そのうちのひとつは明治初年まで残存していた。
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単行本p.101

 伊豆半島と本州の衝突により、大きく隆起している地形が本州側にも生じている。地面の隆起と浸食、大地震による崩落などの痕跡を解説します。


「5 ドローン撮影の威力」
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 ここでは熊本地震を例として、災害現場におけるドローン撮影の威力を紹介する。
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単行本p.118

 2016年熊本地震や英国の例をもとに、高所や地表からの撮影では十分に判別できない地形やその変化の詳細を、超低空から撮影することで明らかにできるドローン撮影の威力を示します。



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『キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち』(ペネロープ・バジュー、関澄かおる:翻訳) [読書(教養)]

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 哀しみも、愛する喜びも、立ち向かい続ける強さも、私たちはみんなこの胸に持っています。でもいろんなことに忙殺される日々の中でそのことを忘れてしまって、まるで自分がひとりぼっちみたいに思えてしまったりもします。そんな時こそ、この『キュロテ』を開いて、聞いてください。あなたは、私たちは、ひとりじゃないよ。わかるよね? 紀元前の彼方、地球の反対側、はるか遠くから投げかけられ続けている声を。
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単行本p.147


 権力と命がけで戦った女性、ショービジネス界で一世を風靡した女性、不朽の名作を残した女性。社会の偏見に屈することなく、自由や誇りや愛を貫いてみせた偉大な女性たち。男のための「世界の偉人伝」からは無視される彼女たちの鮮烈な生きざまを、美しい絵と文章でうたいあげるグラフィックノベル。単行本(DU BOOKS)出版は2017年11月です。


 まずは、瀧波ユカリさんによる『臨死!!江古田ちゃん』のアグレッシブな解説から。


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 女はこのように笑い、怒り、楽しみ、泣き、哀しみ、絶望し、そして前へ進んでいく。どう? 物珍しいでしょう? だってこれは全て、あなたたち男性が見ようとしないこと、無視し続けていることなのだもの。馬鹿な女の赤裸々ストーリーだと思って、消費してくださってもかまいませんよ。そんなあなたたちの姿勢すら、ネタにして差し上げますから。そんな喧嘩腰なスタイルで、私はそのデビュー作を男性誌で10年描きました。
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単行本p.146


 偏見に屈しない女、好きなように生きる女、逆境の中で戦い続ける女。「男性が見ようとしないこと、無視し続けていること」、そんな女性の生きざまを描いたグラフィックノベルです。取り上げられている偉人は、次の15名。


・ヒゲで一世を風靡したバーの女主人 クレモンティーヌ・ドゥレ
・最強&最凶!列強の侵略から小さな祖国を守り抜いたアフリカの女王 ンジンガ
・“西の悪い魔女”を演じた、心優しきホラー女優 マーガレット・ハミルトン
・国の平和に身を捧げた美しき3姉妹 コードネーム: ラス・マリポサス(ミラバル姉妹)
・言葉通りの“永遠の愛”を貫いた女性 ヨゼフィーナ・ファン・ホーカム
・勇猛果敢なアパッチ族の女戦士 ローゼン
・“水中のヴィーナス”と呼ばれた、水着の開発者 アネット・ケラーマン
・アフリカ大陸を横断した初の女性冒険家 デリア・エイクリー
・人種差別と戦い、孤児救済に尽力した黒人ダンサー ジョセフィン・ベイカー
・大人気キャラクター「ムーミン」の生みの親 トーベ・ヤンソン
・古代ギリシャ初の女性医師 ハグノーディケー
・DV夫に別れを告げ、祖国を救った平和運動家 リーマ・ボウイー
・アメリカ最古の灯台を守った老女 ジョージナ・リード
・性別適合手術を世に知らしめた“女性" クリスティーン・ジョーゲンセン
・中国史上唯一の女帝 武則天(則天武后)


 絵と文章で描かれた伝記。最後に見開きでカラー絵がついているのですが、これが素晴らしい出来映え。個人的には、絵だけでなく、文章の力にも注目してほしい。ときにストレートに、ときに辛辣な皮肉をこめて、女性の功績をしばしば無視する社会に対して異議申し立てしてゆく。それは女性の読者を、男性の読者だって、勇気づけ、命を救う言葉なのだと思います。


――――
どうせ珍品扱いなんだから、と
人前では気さくで陽気な有名人を演じつつ
自らの尊厳を守り、女性としての人生を
淡々と歩んだクリスティーン

(ほら、笑って★)

好奇の目にさらされながらも
常に凛としていた

彼女は、ほかのみんなも
自分らしく生きられるように
あらゆる困難を乗り越え
自ら広告塔となったのだ

「世の中を変えたとまでは
言わないけど、時代のお尻を
けっ飛ばすくらいはしたわ」
――――
単行本p.133


――――
トーベはムーミンのすべてを
弟のラルスに託した
(以後、物語は彼が執筆した)

そして、残りの人生は
好きなように作品を描いて
タバコを吸って、旅をして
トゥーリッキとの時間に費やした

まるでムーミン一家がクレープを焼いて
ピクニックに出かけて、物語を語って
お互い世話を焼くように

ほかのことは
どうでもいいかのように
――――
単行本p.93


――――
武則天は81歳で崩御
墓碑には彼女の
生前の功績が刻まれる
はずだったけど――

いまだ何も
記されていない

何世紀もの間、歴史学者は
秘密警察や政敵排除のこと
ばかりを強調し、中国版・ハートの
女王のように描いてきた

「枕営業までしてたってよ!」

けど、見方を変えれば
武則天の短くはかない王朝は
政争を除いておおむね平和であり
様々な分野(芸術、社会制度改革
など)で、実は中国史上
最も進んでいた時代とも言える

逆に、何かというと
(アリエナイこととして)
彼女が“オソロシイ”、
“ガンコ”な“野心家”
だったとされるの……

歴史上、
皇帝のほぼ全員に
共通する性格
(で、ほめ言葉)
なんだけどね……

「中国史上、
たったひとりの女帝に
それを認めるのは
難しいらしいわ」
――――
単行本p.143



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