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『ホサナ』(町田康) [読書(小説・詩)]

――――
 どうかこの世が正気でありますように。その正気に守護されて私の犬が無事でありますように。
――――
単行本p.491


 シリーズ“町田康を読む!”第59回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、救いを求め穢土を彷徨う長篇小説にして、宗教的救済をテーマとする現代の旧約聖書、『告白』『宿屋めぐり』に続く集大成的大作です。単行本(講談社)出版は2017年5月、Kindle版配信は2017年6月です。

 『宿屋めぐり』から九年、ついにやってきました。「ホサナ」とは、キリスト教の公的礼拝で使用されるヘブライ語で、「私たちを救ってください」という意味だそうです。ちなみに本書の最終章のタイトルがそのものずばり「私たちを救ってください」。救いたまえ、我等を救いたまえ。

 罪から救われたい、煩悩から救われたい、この狂った世界から救われたい。罪と祈りの物語が展開してゆきます。


――――
 あんなことをしなければよかった。あんなことをいわなければよかった。
 激しくそう思ったが、もう遅かった。
 言ってしまったこと、やってしまったことを、なかったこと、にはできなかった。となれば後は、忘れ、に期待するより他ないが、まだあまり時間が経っておらないため、記憶は生々しく蘇り、その都度、精神が苦しかった。
――――
単行本p.81


 他人に負けたくない。そんな拘泥を捨て去り、目指すは真の「抜け作」。日本くるぶしから使命を与えられ、穢土を彷徨いながら、栄光と現報とひょっとこの限りを尽くす語り手は、はたして犬の境地に到達できるのか。そしてその先に救済はあるのか。愛犬家ってどうしてやたらとバーベキューパーティやりたがるの。何だかよくわからない。


――――
「あーん。わからないのか、そんなこともわからないのか。もう一発、殴ってみたらどうだ。俺の頬が餅のようにビヨヨンと伸びるほどに。できやしないだろう。俺がさっき洒落や冗談で『おーい中村君』を歌ったと思っているとしたらそれは正解です。洒落や冗談で歌ったんだよ、俺は。ただまったく意味がないわけではなくて、一見、無意味な言葉や会話や情景が連なっているように見えてそのなかには実は重要な意味が隠されている。それを発見するのが生きるということだ。それができないであてがい扶持で満足するならそれは奴隷の人生だ。この場合で言うとそれは、伝書鳩、という Word さ」
――――
単行本p.625


 愛犬家の集うドッグランに参加した語り手は、光柱となった栄光に焼き尽くされ一瞬で消滅する。日本くるぶしから「蒸しずし食うな、人々に正しいバーベキューを食べさせよ」と命じられたもののとりあえずなかったことにして蒸しずしなど食していたところ、たまたまコンビニ強盗を散々に打ち据えて交通事故に、路地を歩けば悪霊にとりつかれ公会堂ではひょっとこの群れに襲われるなどし、警察に助けを求めたら痴漢冤罪で逮捕、もうあかんので仕方なくバーベキューなど準備したものの、パーティーは地獄のような有り様になり果てる。こうなったら犬の保護施設を建てる資金として400万円を振り込むしかないと言われ激怒した語り手はついに人を殺めてしまう。したところ犬の保護施設は大成功。今や犬と意思疎通できるようになった語り手は若干の栄光を浴びるが長くは続かなかった。しかし犬芝居を通じて語り手はついに宗教的開眼に至る。それは抜け作への道だった。


――――
 そう思うとき私はよろこびに輝いた。そしてすべてがストンと落ちた。それは私がずっと持ち続けていた、人に負けたくないという気持ちが落ちた瞬間であった。衰弱して抜け作になっていくこと。人について行くこと。火の側にいると同時に肉の側にいて人々の栄養となりエナジーとなること。それらを悪しきこと。或いは無様なこと。屈辱的なこと。と、そう考え、保多木節を歌い狂っていた、その気持ちが黒い丸孔にストンと落ち、次に上がってきたとき私にはもうよろこびしかなかったという寸法だ。
――――
単行本p.374


 しかれど語り手と愛犬は奈落へ落ちてゆき、竹が生えて絶叫し、荻原朔太郎の言いたかったのはこういうことなのかと、また腐ったひょっとこの死骸をかき分けかき分け進むなどの辛苦を重ねた末、ついに犬の導きを知るのだった。


――――
「俺はおまえがいまのようになるようにずっと努力していたんだ。おまえのくだらない虚栄心やおまえの不安や絶望をひとつびとつ取り除くのは本当に大変だった。それは誰にも理解されない努力だった。当のおまえさんにもな」
「なにを言っているのかぜんぜんわからない。おまえがばかな犬でないのなら主人の私を出口に導いておくれ。そして芝居がうまくいくように手伝って欲しいのだ」
「だからそういう問題ではなく、私はあのときからおまえをずっと導いていたといっているのだ。私を誰だと思っているのだ」
「おまえは私の犬」
「ちがう。おまえが私の犬と知れ。そして我こそはなにをかくそう……」
――――
単行本p.393


 だが進撃の光柱によって世界はおおむね滅びてしまう。犬とは離れ離れになり、毒虫にやられ、何もかも狂った世界に迷い込んでしまう語り手。救済への道はなお遠く、受難は果てしない。だが真の抜け作の境地をめざして他人様に散々迷惑などかけながら犬道をゆく。


――――
それにつけても恐るべきは光柱の放つ energy で、あの暴れ狂う途轍もない energy は国土軸のみならず、国土と国土周辺の時間軸をもへし折り、渚の向こうとこちらに時間の断崖のようなものを拵えてしまったのである。
 このことが将来的にどんな災厄をもたらすのか。考えるだけで恐ろしく、一時的に頭がおかしくなって、闇の中で泣きながら汁なし饂飩を食べているような気持ちにドシドシなっていく。っていうか、もうなっている。
――――
単行本p.547


――――
いろんなことを体験するなかで、抜け作であること、いやさ、抜け作であろうと意志して、そして意志したとおりの抜け作になること、それを不断に繰り返すこと、いわば永久革命論的な抜け作への飛躍以外に生きる道はない、それこそがこんな言い方をするのは痴がましいが、菩薩行に近いのではないかと、ひりひりと悟って、何度かの失敗を経て、これを実践中であったからだった。
――――
単行本p.519


――――
 ここまで抜け作になっていながらそれに気がつかなかったということがどういうことを指しているのかというと、私がどうしようもない愚物であるということを指しているのは間違いのないことだ。何度も何度も間違いを指摘され、また、失敗をして大怪我で入院をしたり騙されて財産をなくしたりして、その都度、今度こそ、本当の抜け作になろう、いやさ、なった、と思い込み、でもちょっといい感じになるとすぐに有頂天になって、自分は光に召喚されたと天狗になって高級ブランドを着て都心部を歩き回るなどしていた。その反動で、あがった分だけ落ちて落ちて、人望もなくなり、ついには犬とも離れて虫に襲われ、それで今度こそようやっと本当の抜け作の心にいたったかと思ったらいまようやっとこんな基本的なことに気がついて衝撃を受けている。
「でも、希望を持っていいのよ。っていうか、希望しかもう持てないと思うのよ」
 と、ついに女の人が私の顔を見て言った。
――――
単行本p.525


 時間も空間も人心もすべて狂った世界で、語り手は愛犬と再会できるか。そこに救済はあるのか。ラストはマジ泣けるので覚悟しておけよ。

 というわけで、小説だと思って読めば困惑するやも知れませんが、聖書だと思えばいやますありがたさ。様々な古典の風格もそこはかとなく。活き活きとした語りが爆笑と狂騒をともないつつ宗教的法悦へと読者を導いてゆく様は、文学すげえな文学。おい。


――――
「先生の文章はいっけん、なにを言っているのかよくわからないし、もしかしたらこの人はなにも言ってないのではないか、なにも考えてないのではないか、と思うのですがよく読むといっぱい考えて、なにも言わないでおきながらすべてのことを言っているのでは? と思わせる、なにか、があります。そこが多くの人を引きつけてやまないところなのですね。少なくとも私はそう思いたいです。無理ですけど」
――――
単行本p.242



タグ:町田康

『三匹のとけだした犬』(小松郁子) [読書(小説・詩)]

――――
とけた三匹の犬のとけない
六つの目が二つずつ男たちの捻挫したあしもとで
ほつほつと青くひかる
――――
『三匹のとけだした犬』より


 日常的な、見慣れているはずの風景が、なぜか怪談のようにおそろしい。人づきあいの記憶が異化されゆく鳥肌詩集。単行本(思潮社)出版は2003年10月です。

 何しろ『消える村』が怖かった。郷里の記憶が異界へとつながってゆく様に震え上がり、読了後もしばらく夜の廊下を歩けないという、生活に支障をきたす詩集。紹介はこちら。


  2017年05月30日の日記
  『消える村』(小松郁子)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-05-30


 何かを克服すべく、同じ作者の詩集をもう一冊読んでみました。『消える村』と似た雰囲気の作品もいくつか含まれていて、やっぱり怖い。


――――
 あとはゆっくり かたづけておく
耳もとで声がきこえる
地霊かもしれない
蔵の裏に彼岸花を真赤に噴きあげた
あの地霊かもしれない
うなずいて
門を出てきた
――――
『彼岸花』より


――――
門を入りにわん口の戸をあけ
小庭の緑が目にしみる表座敷に上っていくと
異母妹がふてくされたように横ずわりに坐っていた
その時になって
つい最近異母妹が まわりに毒気を吐きかけて
自滅するように 肺がんで死んだことを思い出したのだが
そしらぬ顔で
父と継母にむかって
異母妹には死ぬまで嫌な目にあわされつづけた
病気のように嘘をつき
どろぼうのように盗み
咎めると気狂いのようにたけりくるう異母妹は許せない
たとえ死んだとしても
いまだからいうけれど
と ひたすら異母妹をなじりつづけた

父も継母も死んだ異母妹の死ぬよりずっと前に死んだことを
なじりおえて やっと 思い出した
――――
『異母妹』より


 郷里の記憶がメインとなっていた『消える村』と比べると、本書に収録された作品には日常的な風景を扱ったものが多く、ならば安心して読めるかと思うや。


――――
女のひとは
倉庫の壁に背をもたせかけ
ずーっとこちらを
みつづけている

あたりは段々うすぐらくなって
そのひとの形を
ぼおっとにじませているのに
嫌な目つきだけが
くっきりしてくる
――――
『薄暮』より


――――
真赤に口紅をぬった太った女のひとが
赤いマニキュアの指先で
苺をつまんでたべている
太った女のひとはさらに
少しずつ太ってゆき
熟れすぎた甘い匂いを放ちはじめた
――――
『苺』より全文引用


 やっぱり、何かしら、いやーな、不穏なものが漂ってきます。黙っているのが嫌なのか。では、何か話したり、アクションをとったりしたら、むしろ日常的な光景に還元され安心感が生ずるのでしょうか。


――――
ゆきすぎたあと
突然
奇声がおこる
ふりむくと
柿渋色の僧服の老人がこちらを鋭く指さしていて
若い女たちは
咎める目つきをいっせいに送ってきた
――――
『切り通し』より


――――
 おじいさんの家はあんたの家じゃない

激しくなじるまえに
ひっぱられた腕を
丸たん棒でも振りまわすように
ふりほどいた女は

 さあ どんどんお金を入れてよ
 お金がいるんだからさあ


がなりたてた

悲哀が 足をすくませた
――――
『屋敷』より


 どうも人づきあいの嫌なところをついてくるような感触があって、どうにも心休まりません。単独で読めばきっと「ほのぼの」しているであろう作品でも、一冊の詩集のなかに置かれることで、居心地の悪さがにじみ出るような気がする。


――――
アルパカのコートはやわらかくて あたたくて着心地がよくて幸せだった
難は大きすぎることだった
 アルパカのコートを買ったわ
と 電話をかけると相手は 戦争中にアルパカで軍の手旗信号の旗をつくった
ことを思い出した
 アルパカのコートを買ったわ
別のところに電話をすると相手は 軍人さんのオーバーコートの布地だったと
いう
――――
『アルパカの話』より


――――
西大寺町尋常小学校の
広い広い運動場の真中で
幼稚園児のわたしたちは
タンバリンをたたきながら
小さく小さく小さく輪踊りをした
――――
『運動会』より全文引用


――――
セロハン紙をぺろぺろ紙といっていた
小さなお魚の形をきりぬいた赤いぺろぺろ紙は
掌にのせるとゆっくりそりかえった
ぺろぺろ紙は
駄菓子屋の小梅さんの店で売っていた
ぺろぺろ紙がとても好きだった
民江さんや磯貝さんと連れだって
学校の行きかえり
たんぼの中の道でぺろぺろ紙を掌にのっけては
きゃあきゃあさわいだ
――――
『ぺろぺろ紙』より


 もちろん怖いわけではないのですが、何とも心の底がざわめくような感触があって、もう癖になっているような気が。記憶というものの不思議さにうたれる詩集です。



『世界の終わり/始まり』(倉阪鬼一郎) [読書(小説・詩)]

――――
回転寿司の二番目の皿を間違えつづけてきた人生のささやかな終わり
――――
見るな きみのうしろを全速力で飛び去っていくあのバーコードの群れを
――――
どんなにこわれていても大丈夫ですと廃人回収車が巡回する町
――――
赤い屋根につづくはるかな道 眼圧測定器の中の
――――
いまはまだ何も始まっていないからさんかくの耳もつものをいだいて眠る
――――


 世界の終わりと始まりを詠む。「多少なりとも希望のある歌を詠もうと考えて」いたのに、やっぱり「できるのは相も変わらず終末のほうに傾いた歌ばかり」と作者が語る終末歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2017年2月、Kindle版配信は2017年2月です。


 俳句アンソロジー『怖い俳句』と『猫俳句パラダイス』の二冊が強烈な印象を残してくれたので、個人的に、倉阪鬼一郎さんといえば俳句の人、というイメージが強い。というか実は『活字狂想曲』のイメージの方が強いのですが。

 ちなみに二冊の俳句アンソロジーの紹介はこちら。

  2012年08月01日の日記
  『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-08-01

  2017年01月31日の日記
  『猫俳句パラダイス』(倉阪鬼一郎)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-01-31

 しかし、本書あとがきによると、もともと短歌を詠んでいて、後から俳句に転向したのだそうです。本書はその倉阪鬼一郎さんの最新歌集。

 まずは終末風景を詠んだ作品が目につきます。


――――
終末の朝には一つとうめいな花火のようなものがあがるよ
――――

――――
晴れわたる終末の地の上空を赤い飛行船ゆるゆる流れ
――――

――――
姿なき飛行機通り過ぎていく人滅びたる夜明けの空を
――――

――――
鉄橋を渡りきってもだれもいないあの町もこの町も無人
――――


 世界の終わり、人類の滅亡、といったおおごとではなく、ごく局所的な風景を詠んだ作品にも、それとなく終末感が漂っているような気がします。


――――
カーブミラーの代わりに無数の蝋燭が立つだれも通らぬ崖沿いの道
――――

――――
水の中の階段何も動かない水だけが静かに充ちている場所
――――


 自身の人生を自嘲的に詠んだ作品は、苦いユーモアがほどよくきいていてスパイシー。


――――
この地球という星に生まれてベビースターラーメンを一袋買う
――――

――――
おいしい唐揚げもいかがですかと問われて全体重をかけて「いらない」と答える
――――

――――
回転寿司の二番目の皿を間違えつづけてきた人生のささやかな終わり
――――

――――
鹿くれば鹿にえさやり猫くれば猫にえさやる人生なりき
――――


 個人的には、奇妙な、SF的な光景を詠んだ作品、ありがちな言葉の文脈をはずして笑わせるような作品、そういったものにも惹かれます。


――――
見るな きみのうしろを全速力で飛び去っていくあのバーコードの群れを
――――

――――
どんなにこわれていても大丈夫ですと廃人回収車が巡回する町
――――

――――
火星にも土星にもおれ もしくはおれに似たのっぺらぼうの何か
――――

――――
赤い屋根につづくはるかな道 眼圧測定器の中の
――――

――――
なかったことにしてくれと言われてなかったことにしてあげる夏の光
――――

――――
おはなしはぜんぶ終わったからたぬきのたの字を抜いてください
――――


 そして、短歌というもの、あるいは短歌を詠むという行為、それについて詠んだメタ短歌。


――――
短歌を一首忘れてしまった 永遠に閉ざされてしまうささやかな世界の入口
――――

――――
短歌から遠く離れてふりかぶるバックネット直撃の球
――――

――――
べたべたとまとわりつくわたくしを斬りつくしてこんなにも晴れやかなわたしの短歌
――――

――――
落丁だらけのおれの人生の歌集を読めるものなら読んでみやがれ
――――

――――
だれが詠むか家族人生政治などおれの言葉は無の断片だ
――――

――――
断片以前の言葉の波の間に浮かんで消える純粋短歌
――――


 最後に、『猫俳句パラダイス』の著者らしい素敵な猫短歌を一首あげておきましょう。


――――
いまはまだ何も始まっていないからさんかくの耳もつものをいだいて眠る
――――



『ニャンニャンにゃんそろじー』(町田康、他) [読書(小説・詩)]

――――
「これからも、まだまだかかるわよ。だって、避妊手術もしなきゃだし、歳をとればとるほどいろんな病気のリスクがある。そのたんびに、高額な治療費が取られるのよ。……それでも、あなた、あたくしの奴隷を続けるっていうの?」
 はい、続けます。
「おバカさんね。……ほんと、あなたったら、おバカさん」
――――
単行本p.185


 シリーズ“町田康を読む!”第58回。

 「小説現代」2017年3月号の特集「猫好きのためのにゃんそろじー」に、描き下ろし猫コミックを追加した一冊。単行本(講談社)出版は2017年4月です。


[収録作品]

『猫の島』(有川浩)
『猫の島の郵便屋さん』(ねこまき(ミューズワーク))
『ファントム・ペインのしっぽ』(蛭田亜紗子)
『ネコ・ラ・イフ』(北道正幸)
『黒猫』(小松エメル)
『鈴を鳴らして』(益田ミリ)
『まりも日記』(真梨幸子)
『ヅカねこ』(ちっぴ)
『諧和会議』(町田康)


『猫の島』(有川浩)
――――
「相変わらずだねえ、あの二人は」
 背中からかかった声に振り向くと、――あのおばあさんだった。明るい砂浜だと、白く濁った右目がますます目立っている。
「相変わらずって?」
「前に来たときも、助けなくていいものを助けようと躍起になってたよ」
「助けなくてもいいって……」
 いたいけな子猫がカラスにつつき回されていたら、助けたくなるのが人情というものじゃないだろうか。
「弱いものから狩られる。そういうもんだよ」
 おばあさんの言葉は非情だが、なぜか残酷には聞こえなかった。
――――
単行本p.30

 沖縄の離島にやってきた、父親、その再婚相手、そして父親の実の息子である少年。少年は、父の再婚に対する心の整理がまだついていない。両親が子猫を助けようとしているとき、少年の前に謎めいた老婆が現れ、二人の馴れ初めを話してくれる。なぜ彼女はそんなことを知っているのか。そもそもこの人は誰なんだろう。

 南の島を舞台に、少しばかりファンタジー要素を加えた家族小説。猫の獰猛さと儚さが印象的です。


『ネコ・ラ・イフ』(北道正幸)
――――
ハハハ、あいかわらず寝相がおっさんだな
猫……でいいんだよな?
――――
単行本p.103

 朝、出勤時。ごみ袋を荒らす黒猫たち。池では茶虎が水面を泳いでいる。駅前広場では人が投げた豆に白猫が群がり、驚くと一斉に飛び立つ。動物園では猫のスカイウォークに客が歓声をあげ、水族館の猫ショーではプールの水面を割って猫がジャンプ。夕方、電線に並んでとまっている猫たち。こうして街の一日が終わる。

 文章で説明してもまったく面白くありませんが、絵を見れば思わず笑ってしまう素敵なコミック作品。個人的に、池にぷかぷか浮かび、水面をすすーっと滑ってゆく香箱猫がツボです。


『まりも日記』(真梨幸子)
――――
「なら、どうしてあたくしを飼ってしまったの? そんな無責任なことをしたの?」
「だって、仕方ないじゃないですか。運命だったんですから……」
「は? 運命? 衝動的で無責任で無計画でその日暮らしのおバカほど、“運命”という言葉を使いたがるんですよね。それを免罪符にしようとするんですよ」
「そんなこと、言わないでください……」
「あたくし、つくづく、運がないわ。あなたのような衝動的で無責任で無計画で甲斐性のない貧乏人なんかに選ばれてしまって」
――――
単行本p.188

 貧乏暮らしをしている売れない作家が、ペットショップで購入した猫、まりも。気位の高いブリティッシュショートヘアの彼女のために、作家は次々と痛い出費を強いられることに。

「あたくしは、金のかかる女ですよ」
「庶民が食するようなものは、受け付けません。穀物フリーのやつをお願いします」
「あなたが仕事に行っている間、あたくしがどれほど寒い思いをしているか」

 病気の治療、避妊手術、プレミアムフード。次々とお金がなくなってゆき、まりもからは甲斐性のなさを責められ、仕事はクビになり、小説は売れないし、それでも猫といることでこの上なく幸せな現実逃避。

 だが、やがてカードローンは限度額に達して返済不能、多重債務者になって、部屋は差し押さえられてしまう。もう一緒にいることが出来ない。

「本当に、私がバカでした。本当に、ごめんなさい……」
「で、あたくしはどうすればいいのかしら?」

作者コメントより
「私がもし、ブレイク前にマリモさんと出会っていたら……という仮定のもと創作したのだが、書いていて辛くなった」


『諧和会議』(町田康)
――――
「議長は言葉で説得すべき、と仰いますが、それ以前にひとつの疑問があります。それは、ぜんたい猫は言葉がわかるのか? という疑問です。わかっているのなら説得も意味があるでしょう。でももしわかっていないなら……、それを私は問いたいのです。私は彼らがなにか話すのを聞いたことがありません」
 牛がそう発言した途端、議場は混乱、収拾がつかなくなった。そういえばなんとなく話しているような気になっていたけれども猫と会話した経験がある者はひとりもなかった。飛ぶ者、跳ねる者、吠える者、嘶く者、無闇に乳を噴出させる者。再三に亘る「静粛に願います」という議長の呼びかけを無視し、みな顔を真っ赤にして自説を言い立てた。
――――
単行本p.214

 人類は滅び、代わりに言葉を獲得した動物たち。「理性と悟性によってなる諧和社会」を実現した彼らが集まって諧和会議していたところ、猫君の暴虐ぶりが議題にのぼる。

 遊び半分で小動物を虐殺する。

 「無表情で、なんともいえない虚無的な目をして」(単行本p.213)高価な壺を割る。

 「割れるものは割るし、噛み砕けるものは噛み砕くし、或いは口に咥えていって高いところから落としたり、パソコンとかスマホなんてものは小便をかけて壊しちゃう」(単行本p.213)。

 このような暴挙を説得して止めさせるべきという議長に対して、そもそも猫は言葉がわかるのかという疑問が提出され、議会は大混乱。すぐさま調査委員会が発足する……。

 言葉を獲得したせいで人間の駄目なところまで引き継いでしまった動物たちと、そんなもん意にも介さず自由奔放に振る舞う猫。形骸化した言葉を風刺する抱腹絶倒の動物寓話ですが、実は「うちの猫あるある」小説ではないかという気がします。


タグ:町田康

『図書館情調』(日比嘉高:編、笙野頼子、三崎亜記、他) [読書(小説・詩)]

――――
 図書館は単に本が収められている空間ではない。そこで人が本に出会い、人に出会うことによって、静謐な読書の場は何事かが始まる物語の空間となる。多くの作家や詩人たちが、図書館という場に目を向けてきたのも当然だ。彼らはものを書く人間として、知識を書物から吸収しなければならず、図書館はその生活圏の一つであった。そうしてまた、書物を目指して見ず知らずの者たちが一所に集い、本を媒介として過去や現在に繋がり、その場所で人と人同士も接触するというこの空間の面白さに、創作の種子を見い出した者たちがいたとしても、何の不思議もあるまい。
 本書はそんな図書館に魅入られた作家詩人たちによる、〈図書館文学〉のアンソロジーである。
――――
単行本p.222


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第112回。

 書物を介して見知らぬ者同士が出会う場所。図書館という不思議な空間を舞台とした小説や詩のアンソロジー。単行本(皓星社)出版は2017年6月です。


[収録作品]

  『図書館情調』(萩原朔太郎)

第一部 図書館を使う
  『出世』(菊池寛)
  『図書館』(宮本百合子)
  『文字禍』(中島敦)
  『世界地図を借る男』(竹内正一)

第二部 図書館で働く
  『柴笛詩集(抄)』(渋川驍)
  『少年達』(新田潤)
  『司書の死』(中野重治)
  『図書館の秋』(小林宏)

第三部 図書館幻想
  『深夜の道士』(富永太郎)
  『S倉極楽図書館』(笙野頼子)
  『図書館幻想』(宮澤賢治)
  『図書館あるいは紙魚の吐く夢』(高橋睦朗)
  『図書館』(三崎亜記)



『出世』(菊池寛)
――――
自分の顔を知って居るかも知れないあの大男は、一体どんな気持で自分の下駄を預るだろう。あの尻切草履を預けて、下足札を貰えなかった自分と、今の自分とは夢のようにかけはなれて居る。あの草履の代りに、柾目の正しく通った下駄を預けることが出来る。が、預る人はやっぱり同じ大男の爺だ。そう思うと、譲吉はあの男に、心からすまないように思われた。何うか、自分をしまって居て呉れ、自分がすまなく思って居るような気持ちが、先方の胸に起らないで呉れと譲吉は願った。
――――
単行本p.23

 貧乏学生だった頃に通っていた帝国図書館にひさしぶりに足を向けた語り手は、かつて下足番の老人との間で起きた小さなトラブルのことを思い出す。あの頃から自分は随分と出世した。それなのに、あの老人は今も図書館の地下の暗がりで客の下駄を預っているに違いない。そしてそのまま出世することなく一生を終えるのだろう。出世した自分との境遇の差に何やら申し訳ないものを感じ、語り手はどうか老人が自分のことに気付かないでくれ、と祈るような気持ちになるのだった。

 有名な短篇。若い頃に読んだときはそのエリート意識に何とも鼻持ちならないものを感じて嫌だったのですが、この歳になって読むと、まあ自意識過剰な若者らしくて大いに結構結構、といった気持ちに。


『図書館』(宮本百合子)
――――
広間の入口で、学生に、婦人閲覧室はどこでしょうときいたら、不思議そうに一寸黙っていて、ここです、と答えた。ここというのは、一般閲覧室である。入って行ってみると、男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている。戦争はその結果としていろいろの変化をもたらした。けれども、この役人くさい図書館が、やっと世間なみに、男女共通の閲覧室をもつ決心をしたということには一種のユーモアがある。
(中略)
 もうこれからは、どこの図書館でも、婦人閲覧室というものは無くなってゆくだろう。云ってみれば、社会の全面から、そういう差別を無くしたい気持ちに燃えている、女の人たちの集りが、最後の婦人閲覧室から生れたことは面白く思われる。
――――
単行本p.32

 ひさしぶりに帝国図書館を訪れた語り手。戦前の婦人閲覧室が廃止され、男女平等の一般閲覧室になっていることに、ある種の感銘を受ける。「男子、女子の区別は、従来の日本の半官的な場所では愚劣なほど神経質であった」という過去、「男女区別なしに隣りあって読書したり、ノートしたり、居睡りしたりしている」という現在、そしてその隔離された婦人閲覧室に集っていた女性たちこそ、その変化を勝ち取った主役であったに違いないことを想像する。

 前述の『出世』(菊池寛)と同じ場所、似た状況なので、読み比べると面白いと思います。前者がもっぱら自分と他人の出世を比べて互いに傷つかないように接するエリートしぐさに汲々とするばかりなのに対して、本作の語り手は、世の中の変化とそれをもたらした人々、そして自分がいまいる場所と彼女たちとのつながりに思いを馳せるのです。


『文字禍』(中島敦)
――――
文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智恵もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智恵の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。之も文字の精の悪戯である。人々は、最早、書きとめて置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、最早、働かなくなったのである。
――――
単行本p.40

 古代アッシリアの老博士が、粘土板に刻まれた文字は単なるシンボルではなく、そこには文字の精が宿っていることを発見する。文字の精は人間をたぶらかし、堕落させ、真の智恵からむしろ遠ざけるものである、と主張する博士。だが、さすがの博士も、文字の精による反撃は予期していなかった。

 SFファンならつい「ああ、飛浩隆さんのあれの元ネタ」などと思ってしまう有名作。頭でっかちな知的エリートに対する風刺でしょうが、文字をネットあるいはSNSと読み替えれば、そのまま今日の風潮に対する風刺になってしまうというのが恐ろしい。「歴史とはな、この粘土板のことじゃ」「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と叫ぶ博士の姿にも、何やら強い既視感があります。


『S倉極楽図書館』(笙野頼子)
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 そこでの利用者は異種間の衝突を避けるため、頭から布類または木の葉をすっぽり被って、体を隠していることが多い。「いろいろな方が来られるのですから」という特別地下司書も、カウンターでは腹這い。その司書だけは多分、私と「同族」だ。初めての利用者は特別図書カードをまず拵えるのだが、署名はいらない。葉書大の紙と、朱肉ではなくて畑の土が一塊手渡されるだけ。そこで私は指先を丸めて肉球ぽくしながら土をなすり、紙に「足型」を押した。形で固体を区別するのなら土よりインクがと思って尋ねてみると。「形より足臭です、臭いで区別します」と。カードも今のプラスチックのでなく、昔高校の図書館にあったような紙製のである。隣でふと差し出したそれを見ると、「日本の言葉」なのだが、見た事ない文字だ。本の分類も数字ではなく、多くは肉球ハンコ、その大小の羅列で整理してある。
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単行本p.134

 千葉のS倉に家を買って保護した猫たちと共に引っ越した作家。とりあえずの「無事」と「幸福」のなかで森茉莉の評伝小説を書いていたところ、調べ物があって、S倉地下図書館に行くことになる。そこは神明神社の横にある小さい祠の床に開いた大穴から這って入る「哺乳類だけの」図書館。しかし、どうも狐狸妖怪のたぐいもいっぱい利用しているようで「動物でなくても動物の形さえとっていれば」OKという、さすが極楽図書館。

 本作が収録されている短篇集の紹介はこちら。

  2014年08月29日の日記
  『片付けない作家と西の天狗』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-08-29


『図書館』(三崎亜記)
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 地に繋がれたとはいえ、「図書館」は、完全に野生を失ってしまったわけではない。人のいない深夜だけ「野生」を取り戻すのだ。そこで働く者にとっては周知の事実であるが、一般の人々にはほとんど知られてはいない。
 閉ざされた暗闇の中で、図書館の野生に庇護されて、本たちはゆっくりと回遊し、遺伝子に遺された野生の血を受け継いでゆく。
 長き図書館の歴史に思いを馳せ、静まり返ったフロアを見渡した。私は、「図書館の野生」を、一般の人々にも触れる機会を持たせるべく派遣されてきた「調教士」だ。
 夜の図書館を一般公開するというのは、猛獣の檻の中に人を案内しようとするようなものだ。だからこそ、私のような仕事、すなわち「図書館の調教」が必要となってくる。
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単行本p.160、

 夜の図書館。一般利用者の目に触れないところで、書物たちは大きく羽ばたいて図書館内を回遊している。そこは本が束縛から解き放たれ、本能に従って群れなし飛翔する野生の空間。この、本来、人が触れるべきではない本の夜の生態を、地域振興のために一般公開するというイベントが全国で行われるようになってきた。事故が起きないよう安全に公開するためには、野生動物の調教と同じく専門家による管理が必要不可欠なのだ。

 本作が収録されている短篇集の紹介はこちら。

  2009年04月27日の日記
  『廃墟建築士』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2009-04-27



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