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『ガラス細工の至宝』(笙野頼子)(『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)収録) [読書(随筆)]

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 ネオリベラリズムの、自由貿易推進を建前にして、国家主権を侵す人喰い条約。憲法は民草を人間と見做すけれど、人喰いは資材、数字、搾取の対象としか思っていない。まさに根本的な対立である。そして憲法は、暴力団のようなIMFと使い走りのような日本の裁判官(中村みのり)から、笑って蹴り殺せるレベルにされてしまうだろう。それでも、このひどい国で生きる者のお守り本尊、国宝と言える。それは多数決が正義で人柱頼みの人喰い国家日本において、家庭や社会さえ守ってくれない人間を守る、最後の命綱だ。
(中略)
 憲法が理想に過ぎないなどと言ってはならない。本質論よりも、理想を守りにして、すべて今あるものを少しでも守るのだ。
――――
単行本p.135、136


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第111回。

 家庭や社会さえ守ってくれない人間を守る、最後の命綱。それが人喰い条約によって喰われようとしている。『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)に収録された危機感ほとばしる4ページの訴え。単行本(岩波書店)出版は2017年4月です。


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 TPP交渉差止・違憲訴訟の会に入っている。この一月、七回目の口頭弁論が終結した。審議は、まったく尽くされていない。裁判官も急に変わっている。国はリセットのつもりでしたのだろう? このような、……。
 悪魔の、地獄の、国民奴隷化の植民人喰い条約、それを批准してしまった場合に起きる憲法上の問題点、むろん、そこを、会は糺しているのである。
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単行本p.134


 憲法をテーマに、学者、俳優、芸術家、作家、経済人など53人が書いた文章を集めた一冊、『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)。多くの論者が、現実味を帯びてきた憲法改正について論ずるなか、『ひょうすべの国』の著者である笙野頼子さんは、TPPおよびその類の条約による「事実上の憲法停止」の危機について警鐘を鳴らします。


――――
 憲法、それはTPPによって、或いはまた今後いくらでも襲ってくるいくつもの人喰い条約によって、底を抜かれる桶のようなものに「過ぎない」のだ。いくらたがを嵌めても、水を汲めなくなる。
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単行本p.135


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世界銀行に突っ込んでいるお金だけは世界第二位、女性の地位にかんしては百十何位? そういう国において、内閣は今から民のお金を、否、お金ばかりか、人権、福祉、雇用条件、家族、児童、つまりは憲法の人間性を丸ごと喰っていく。放置すれば日本の支配者は多国籍企業の、「無名」の「会社員」がつとめる事になる。
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単行本p.137


 改憲に前のめりになっている政府も恐ろしいのですが、むしろ改憲論議に気を取られている間に、国際条約による「事実上の憲法停止」の準備が着々と進められていることの方がずっと恐ろしい。

「TPPって流れたんじゃなかったっけ?」、「なんで貿易条約が憲法と関係するの?」、「そもそもどうしてこんなに危機感を持ってるの?」などと思った方は、ぜひ笙野頼子さんの小説『ひょうすべの国』をお読みください。紹介はこちら。

  2016年11月29日の日記
  『植民人喰い条約 ひょうすべの国』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-11-29



タグ:笙野頼子

『野良猫を尊敬した日』(穂村弘) [読書(随筆)]

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 自宅のパソコンでインターネットができるようになった。動画を見たり、原稿を送ったり、なんて快適なんだ。みんなはずっと前からこんな便利な暮らしをしてたんだなあ。
 そういう私は今までどうしていたかというと、駅前の漫画喫茶のネットを使っていたのだ。多い日は昼と夜と明け方の三回通ったこともある。傘もさせないような嵐の中をずぶ濡れで辿り着いたこともあった。(中略)

編「そんなに便利だと思うなら、どうして今まで自宅にインターネットを引かなかったんですか?」
ほ「手続きとか、めんどくさくて……」
編「えっ。漫画喫茶に毎日通う方がずっとめんどくさいでしょう?」

 全くその通り。でも、私が云ってるのは、めんどくささの総量ではなくて、目先のちょっとしためんどくささのことなのだ。そのハードルが越せないために、結果的に大きな利子を払い続けることになる。
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単行本p.176、177


 自宅にインターネットを引くのが面倒なので毎日駅前の漫画喫茶まで通う。知人宅に泊まるとき不安でびびり上がり、帰宅した夜に「おねしょ」してしまう。誰もが簡単にやってしまうことが自分には出来ない。なぜなのかを説明しても伝わらない。他人に分かってもらえない臆病さを抱えて生きる歌人による内気エッセイ集。単行本(講談社)出版は2017年1月、Kindle版配信は2017年2月です。


 その独特の感性でもって森羅万象を「想像しただけで怖くてとても自分には手が出せないもの」と「想像しただけで面倒でとても自分には手が出せないもの」の二つに鮮やかに分類してゆくようなエッセイ集です。


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警A「ご自宅はどちらですか」
ほ 「あそこです(指差す)」
警B「まだけっこうありますね」
警A「それに寒いでしょう」
ほ 「平気です」
警B「家に入ってからゆっくり着替えた方がいいのでは?」
ほ 「でも私は自宅にインターネットを引くのに十年もかかってしまったので、その分の時間を少しでも取り戻したいんです」
警Aと警B(顔を見合わせる)
警A「それで歩きながらシャツを脱いでるんですか」
ほ 「ええ」
警B「ちょっと署までご同行願えませんか」

 ああ、嫌だなあ。そんなことになったら。完全な誤解だ。でも、それ以上どうやって説明したらいいんだろう。だって、私の云ったことは、全部本当なんだ。本当に本当のことなんだよ。
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単行本p.182


 自分には何かが出来ない、あるいは自分には奇行癖があるのだがそれには自分の中でちゃんとした理由があって、というエッセイが多いのですが、変な自意識の在り方を訴えるエッセイも印象的です。


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 限定物以外に、生産中止となった商品にも弱い。これもうどこにも売ってないんだ、と思うと体がかーっとなって自分の物にしたくなる。
 最近では感覚の奇妙な逆転現象が起こって、自分のお気に入りのブーツやスニーカーなどが、早く生産中止にならないかな、と思ってしまうことがある。
 理屈で考えると、今のを履き潰したらもう買い替えることができないから、廃番になっては困る筈。でも、それよりも持ち物がレアな存在に「昇格」することに喜びを感じる自分がいる。
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単行本p.52


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「ほむらさんの好きそうな店ですね」
 むっとした。いや、彼の言葉は当たっている。現に私は「感じのいい店だな」と思っていたのだから。でも、それを見抜かれるのは嫌。指摘されるのはもっと嫌。(中略)
 つまり、こういうことだ。私はお洒落なカフェが好き。でも、お洒落なカフェが好きな人と思われるのは嫌。この気持ち、わかって貰えるだろうか。(中略)
私がどんな店を好きだろうが、どんな曲を好きだろうが、他人からすれば全くどうでもいいことだ。頭ではよくわかっている。でも、自意識の暴走が止められない。
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単行本p.130、131、132


 他人の目が気になる系のエッセイといえば、「男の幻滅ポイント」というやつ。


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 カチャカチャと他のキーで入力して、最後に「どうだ」とばかりに「エンタキー」を叩く。やりたくなる気持ちはわかる。だが、その瞬間、小さな「俺様」が顔を出しているのだ。
 女性たちはそれを見逃さない。一秒にも充たない行為によって、ああ、この人って本当は「俺様」に酔うタイプなんだ、と察知されてしまう。おそろしい。
 こういう機会があるたびに、メモメモと思いながら、私は憶えたばかりの幻滅ポイントを自分の手帳に書き込む。人生の参考資料だ。
 そこには他にもこんな項目が並んでいる。

・意味もなく、折りたたみ式の携帯電話をパカパカ開閉している
・携帯電話のメールアドレスがやたら長い
・ペンを廻す
・たくさん服を持っているくせに、組み合わせるボトムスとトップスが毎回一緒

 いずれも中級以上と思える内容で、読んでいるうちに、どんどん不安になってくる。
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単行本p.91


 歌人デビューする前後のことを書いたエッセイも印象的です。


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 でも、待っても待ってもどこからも連絡が来ない。ポストに入ってるのはチラシだけ。電話は鳴らない。おかしい。どこかで誰かが必ず見てる、はずじゃなかったのか。見てる人、僕はここにいるよ、見つけて、早く、早く。でも何も起きない。時間だけがどんどん過ぎてゆく。残業、残業、残業、爆睡。もしかして、本当は、見てる人なんていないんじゃないか。一生このままなんじゃないか。どこかで誰かが必ず見てる、って云ったのは誰だ。どうしてそんなひどい嘘を。
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単行本p.20


 最後に、表題作でもある『野良猫を尊敬した日』から引用しておきます。我に野良猫パワーを与えよ。


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 イヌネコと蔑して言ふがイヌネコは一切無所有の生を完うす    奥村晃作

 人間は犬や猫のことを上から目線で「イヌネコ」などと云うが、その「イヌネコ」は、お金も洋服もスマートフォンも何一つ所有することなく一生を過ごす。実はもの凄い存在なのだ。という意味だろう。
 本当にそうだなあ、と思った。彼らはその日の食べ物すらキープしていない。一瞬一瞬をただ全身で生きている。命の塊なのだ。
 よーし、やってやる。僕にだって、できないことがあるか。そう心を固める。我に野良猫パワーを与えよ。
 でも、眠りに落ちると、また元通り。「うーん、うーん、あついよー、あついよー、あついよー」と、赤ちゃんのようになってしまうのだ。どうして、こんなに弱いんだろう。
 気迫か。やはり気迫が違うのか。
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単行本p.219


タグ:穂村弘

『大阪的』(津村記久子、江弘毅) [読書(随筆)]

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 そういうわけで、地方に行って、東京の人でも大阪の人でもない人と話すと、なぜか大阪の反省点のようなものが勝手に見えてくるようになったのだった。これは実は、仕事で東京と行き来する中では一切見えてこなかったものである。東京の人と話したり、東京で過ごしたりする分には、自分は「ありのままの大阪人」というなんだか迷惑な字面の生き物でいて結構、と思い込んでいたのだが、大阪でも東京でもない場所に行くたびに、大阪の欠点のようなものが思いだされるようになった。具体的に言うと、大阪つまらんと言い続けてきたけど、それは「住んでいるから」というエクスキューズなしにつまらん場所なのかもしれない、という危機感をはらんだ感情である。別にわたしが大阪の危機を憂おうと誰も気にしないわけだけど。
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単行本p.7


 大阪とは何か。大阪てなんやねんほんま。故郷である大阪を内と外の両方から見てきた作家と編集者が、大阪的なるものについて大いに語りあう一冊。単行本(ミシマ社)出版は2017年3月です。


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このへんの、「なんだか変なところでおとなしい」という感じは、大阪の次女っぽい部分を象徴しているのではないかと思う。長女には対抗意識がある。なんだったら自分のほうが美人やしと思っている。個性もあると思い込んでいる。でも本当は、六女や七女みたいに自由ではないし、個性もない。そのことはつゆ知らず、上ばっかり見ているうちに、どうでもいいところでは口数が多くてうざがられてるのに、見た目は誰かの真似で結局無難なだけになってしまっている。
 大阪は、自分で思っているほど美人でもないし、個性もないし、ましてや自由ではない。
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単行本p.17


 というわけで、生まれも育ちも大阪という二人による、大阪に対する屈託あふれる対談とエッセイをまとめた本です。全体は四つの章から構成されています。


「1.大阪から来ました」
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 長女へのコンプレックスを持った次女。自分は姉より美人だと言い聞かせながらも、どこかで姉の影響を振り切ることができない。姉のことをさしてかまわないという態度をとりつつ、わたしお姉ちゃんに似てる? とときどき誰かにたずねている。
 おばちゃんはあるいは、お姉さんのほうが美人やねと言われたことをずっと根に持っているのかもしれない。ときどき夜中に思い出して泣いているのかもしれない。
 わたしの大阪のイメージは、そういう屈託を持った女の人たちである。かわいいところもあるけどたまにめんどくさくて、めんどくさいけど料理がうまいので、ついつい話を聞いてしまう。
 でももう、そろそろ「お姉ちゃんのほうが美人やね」と言われたことは忘れたっていいと思うのだ。なぜならもう、人口では横浜市に抜かれてしまったのだから。日本の第二の都市ですらないんだよ大阪は。実は次女じゃなかったんだよこれが。
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単行本p.22

 津村記久子さんによる大阪エッセイ。大阪の、主にあかんとこを、ずけずけ指摘しまくります。


「2.どこで書くか、大阪弁を使うか問題」
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江 もし僕、慶應とか立教とか行ってたら、たぶんファッション誌なんかやってて、ごっつぅうっとうしい編集者になってたと思いますよ。もう、お洒落なだけのね。

津村 自分はすごい大阪におることを売りにしてるし、働いてたことも売りにしてるし、大阪で書き続けることも売りにしてる。今度は大阪に居ながら大阪じゃないとこに行って大阪人として振る舞って、もらってくるものも売りにしようとしてて、貪欲やなって思います。

江 いや、今僕なかなかええ質問した。それはね、なかなか言われへんことですよ。

津村 いやいや。

江 ほんまやって。自分わかってへんのとちがいますか。
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単行本p.51

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談。大阪という土壌が仕事に与える影響などを語り合います。


「3.大阪語に「正しさ」なんてない」
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 船場の商売人が話す言葉や北新地の古い花柳界、あるいは文楽や落語などの上方伝統芸能に携わる人々の言葉遣いが、正統的な大阪弁だとよく言われているが、それは間違いだと思う。大阪語あるいは大阪弁を話すこととは、東京の山の手言葉を「標準語」として措定し、誰もが「学校で教育され制度化された言葉」を話すこととは違う。大阪語に「正誤」なんてないし、「正しさ」を求めてもおもろくも何ともない。
(中略)
大阪弁というのはそれが「現に話された」現場と、そこから電車で一時間以内ぐらいの距離にあるところのそれぞれの違った「○×の大阪弁」があり、例えば阪神や阪急、京阪、近鉄や南海といった土地柄の違いによる「母語」の違いみたいなものをハッキリ区別できるのが、大阪語(関西語)話者の共通点である。それが大阪弁のテロワール(代替不可能な土壌)なのであろう。
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単行本p.67

 江弘毅さんによる大阪エッセイ、というか大阪弁エッセイ。大阪弁と土地との結びつきについて学術的に語ります。


「4.世の中の場所は全部ローカルだ」
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津村 高校の友だちがニューヨークに嫁に行ったんですけど、(中略)その子に「トランプってヅラなん?」って話をしたら、そんなん旦那にも友だちにも聞けないって言うんですよ。大阪の人やのに。絶対にその子、ヅラかどうか確かめてくれると思ってたのに。(中略)これが大阪の人だったら聞けるじゃないですか。「これはニューヨークに染まってしまったな」と思った。本当にヅラかどうかはわりとどうでも良くて、みんなヅラだと思ってるのかどうか、ってことを聞きたかったんです。

江 大阪のやつってヅラとか言うの好きやからな。俺もそんなん好きです(笑)。

津村 (中略)私は大阪におるから、トランプ見て「ヅラかな」とか言ってるけど、友だちはニューヨークに行ってヅラかどうかなんて聞けない雰囲気になる。どっちがいいかって言ったら、私は「ヅラかな」って言い続けたいと思いますけどね。

江 「邪魔じゃハゲ!」とか言うもんな、僕ら。ハゲてなくても七三分けでもハゲやもんな。
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単行本p.84、85

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談の続き。大阪から見るグローバルとローカル、というテーマなんですが、ほぼ雑談に。


 以下余談。

 昨日の日記(http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-04-04)で紹介した『関東戎夷焼煮袋』(町田康)のなかに次のような一節があります。


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 津村記久子という大阪に住む小説家に、「京都に住まおうと考えたことがあったが、うどん玉が七十八円もして絶望、断念した。自分はうどん玉が四十円以下で買えぬ地域に棲むことはできない」という話を聞いたことがある。
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『関東戎夷焼煮袋』(町田康)単行本p.19


 ところが、本書の対談中、次のような発言が出てくるのです。


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江 津村さん、スーパーでうどんが三十円の土地にしかよう住まん、みたいなこと言ってはりましたよね。それがめちゃくちゃおもろくって。

津村 京都のね、友だちが下宿してるとこの近くでうどんがひと玉四十円して、びっくりしたんですよ。
――――
単行本p.81


 はたして京都のうどん玉は七十八円なのか、四十円なのか。津村記久子はうどん玉ひとつ三十円の土地にしか住めぬのか、それとも四十円以下ならOKなのか。さらに、この矛盾の原因は町田康の記憶違いなのか、それとも津村記久子が相手によって話を変えてるのか。

 おそらくこの問題はいずれ日本文学研究における一大論争テーマとなるであろう。将来のために、ここであえて指摘しておくものである。



タグ:津村記久子

『鳥肌が』(穂村弘) [読書(随筆)]

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 これまでの自分の人生に本当の苦しみはなかったと思う。ただ、幻に怯えていただけだ。私の人生を四文字で表すならびくびくだ。最後の日に叫びそうだ。いったい何をびびってたんだ。今まで何をやってたんだ。どうせ死ぬのに。今日死ぬのに。なんなんだ。と。おそろしい。本書には、そんなびくびくのあれこれを書いてみた。
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単行本p.247


 ほのぼのした光景を見ると悪いことの前兆ではと怯え、母の愛情を知るとその執着心に鳥肌を立てる。暴走気味の想像力もてあまし、ちょっと他人に伝わりにくい怯えを世界と短歌から受けとってやまない歌人によるびくびくエッセイ集。単行本(PHP研究所)出版は2016年7月、Kindle版配信は2017年3月です。


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 苦しみとおそれは違う、と思う。苦しみには実体があるがおそれにはない。おそれは幻。ならば、おそれる必要などないではないか。おそれてもおそれなくても、苦しむ時はどうせ苦しむんだから、その時に初めて苦しめばいい。(中略)と思うけど、できない。どうしても、その手前でびびって消耗してしまう。
――――
単行本p.247


 「昔からこわがりだった」という歌人がどのように自分が怯えているかを語るエッセイ集です。そんなに何が怖いのかというと。


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 例えば、私は小さな子供と大きな犬が遊んでいるのをみるのがこわい。これはTさんにも通じなかった。和気藹々とした光景のどこがこわいの、と怪訝そうだ。
――――
単行本p.10


 Tさんというのは「駅のホームでは絶対に最前列に立たない」「先頭車両は危険なので乗らない」といった具合に常に危険を先回りして想像しては怯えている人なのですが、その人をして怪訝そうな顔をされるほどの、こわがり。ほのぼのした光景は、その直後に迫る惨劇を暗示しているようで怖い、というのです。

 あるいは、知人の女性が何気なく話してくれた母親のちょっと面白い発言。


――――
 彼女が五十代になった或る日のこと。何かの拍子に、八十代のお母さんが独り言のようにこう呟いたという。

  「Fちゃんが死ぬのを見届けてからじゃないと、私も死ねない」

 鳥肌が立った。Fさん本人はどう思ったのだろう。そんなの可笑しいよねえ、と笑っていたけれど。
――――
単行本p.16


 本人が明るく笑っているエピソードに、鳥肌を立てる著者。「常識を超越する発言」「究極の母性愛が生んだ言葉がこれか」などとすくみ上がるのです。どんどん自分を追い込んで怯え増量してゆくタイプ。


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特定の局面で、何かをする自由を与えられた時、その可能性に対してどんな反応をするのか、自分でも確信がもてないのだ。表現ジャンルとしての演劇や生物としての赤ん坊があまりにも無防備であることが、不安に拍車をかける。
 その瞬間、今までに一度も現れたことのない未知の自分が出現しないとは限らない。自分の中に「赤ちゃんを手渡されると窓からぽいっと捨てちゃうフラグ」が立っていたことを、その場で知るのはあまりにもおそろしい。
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単行本p.21


 舞台を観ると「自分が何かやらかして劇を台無しにしてしまうのではないか」と想像し、赤ちゃんを手渡されそうになると「自分はいきなり窓から放り投げてしまうのではないか」と不安になる。自分の中に眠っている未知のフラグが作動する可能性が怖い。

 「今、自分は何か運命の分岐点にいるんじゃないか」と思う瞬間が怖い。黙っている他人が何を考えているのか分からないのが怖い。親しい人が突如として未知の側面をさらけ出すことを想像すると怖い。自分以外の全員が実は自分とは異なる別の何かだったと気づくことを想像すると怖い。食品の原材料表示が怖い。親心が、ロマンスが、人の思いを込めたものが、どれも現実の姿をさらけ出す瞬間が怖い。

 というか、怖くないものがあるのかそもそも。

 そのうち想像力の暴走による怖さだけでなく、知人から聞いた体験が語られるようになると、共感できる怖さが増えてゆきます。


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女性の友人からきいた話によると、或る日、彼女が目を覚ましたら、部屋の中にふわふわとシャボン玉が浮かんでいたそうだ。空っぽだった筈の金魚の餌がいつのまにか増えていたこともあるという。ちなみに彼女は独り暮らしである。
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単行本p.150


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友人(女)の話

 弟の部屋で大量のエロ本とエロDVDを発見してしまった。最初は、しょうがないなあ、と思っただけだったが、よく見たら、その全てが「姉弟モノ」で鳥肌が立った。
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単行本p.155


 そして、ご本人の体験談へと。


――――
鹿? 迷い出て轢かれてしまったのか。でも、ここはそんな場所ではない。都内の大きな道なのだ。それには脚がなかった。だから下半分が路面に埋まっているように見えた。
 一体何だったんだろう。気になって、もやもやする。でも、友達は前を向いたまま何も云わない。なんとなく口を開くのがためらわれた。そのまま、十分ほど走った時、不意に彼が云った。

  「さっき、変なものが落ちてなかった?」

 さり気ない口調。でも、私にはわかった。彼も同じものを見たのだ。角の生えた動物の上半分。(中略)

  「うん。鹿みたいなものが半分くらい、落ちてたね」

 私はそう答えた。それきり、二人とも黙った。あれは何だったのか。下半分はどこにいったんだろう。今考えても不思議だ。
――――
単行本p.92


――――
 そういえば、道の上に自転車のベルが幾つも落ちていたこともある。点々と十個くらい散らばっていた。最初は何かわからず、覗き込んでしまった。ベル、ベル、ベル、ベルだ。どうしてそんなことが起こるのだろう。
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単行本p.104


――――
「住んでいた順番に、それぞれの部屋の間取り図を書いて下さい」と云われて、思い出しながら書いてみた。
 その結果、奇妙なことがわかった。高校生くらいまでに住んだ家の間取り図に、ことごとく風呂がなかったのだ。もちろん、実際にはどの家にも風呂はあった。だが、その場所を思い出すことができない。何故か風呂の位置だけがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
――――
単行本p.175


――――
 数日間、異音に悩まされていたことがあった。がさがさがさがさ、変な音が右の耳から聞こえてくる。いくら耳かきをしても治らない。覗いてもらったけど、特に異常は見当たらないようだ。でも、音は止まない。やはり耳自体の問題か。病院に行くしかないか。と思いつつ、ぐずぐずしていた。
 そんな或る日、なんとなく耳に指を入れたら、するすると髪の毛が出てきた。しかも長い。えっ、と思う。私のよりも妻のよりも、ずっと長いのだ。
――――
単行本p.204


 というわけで、著者の「こわがり」の極端さにちょっと呆れながら読んでいるうちに、次第に想像力が生み出す怖さを同じように体験させられてしまう。微妙な怖さを含む短歌の鑑賞ガイドとして、著者お得意の「だめ自分エッセイ」として、じわじわくる実話系怪談集として、様々に楽しめる一冊です。



タグ:穂村弘

『作家と楽しむ古典』(池澤夏樹、伊藤比呂美、森見登美彦、町田康、小池昌代) [読書(随筆)]

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 あたしはこう見えてすごくまじめなんですよね。『日本霊異記』を訳しているとき、アメリカやヨーロッパで日本文学を研究している友人たちの顔がしきりによぎっていました。ああいう人たちに、景戒さんの姿勢や心意気がちゃんと伝わる現代語訳にしたかったんです。だから、一字一句、まじめに、ニュートラルに、置き換えました。(中略)
そうやって、ボロボロになりながらつくり上げた現代語訳です。出版を記念して、池澤夏樹さんと町田康さんとあたしが朗読する会があったんです。あたしはその前日くらいにやっと本を見たところだから、他の人の訳文見てなかった。つまり『宇治拾遺物語』は、まず、耳から、町田康さんの声で入ってきた。腰が抜けましたね。「やっぱ瘤いこう、瘤」「マジじゃね?」とあり、いやぁ感動した。自分のまじめさ、馬鹿正直に逐語訳した自分が情けなくなった。といって町田さん、荒唐無稽な訳ではない。まじめにきちんと原文に沿っている。しかもそのときの会場が原宿で、若い人ばかりで、みんな町田康目当てで、町田さんの、抑えた読み方に若い人たちがバンバン反応していく。町田さんもそれにビシビシ応えていく。それを見ちゃったあたしは半年くらいショックが抜けなくて、しばらく「町田コロス!」って思ってました。町田康の『宇治拾遺物語』を読めたことは、あたしの長い文学生活で一、二を争う衝撃でした。
――――
単行本p.53、63


 シリーズ“町田康を読む!”第56回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、池澤夏樹さんの編集による『日本文学全集』の古典現代語訳を担当した作家たちによる連続講義を書籍化した一冊。単行本(河出書房新社)出版は2017年1月です。

 本書で扱われている古典の現代語訳のうち、個人的に読んでいたのは第08巻に収録されている『日本霊異記/発心集』(伊藤比呂美:現代語訳)と『宇治拾遺物語』(町田康:現代語訳)だけです。ちなみに単行本読了時の紹介はこちら。


2016年02月16日の日記
『日本霊異記/発心集(日本文学全集08収録)』
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-02-16

2016年02月18日の日記
『宇治拾遺物語(日本文学全集08収録)』
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-02-18


 本書は、前述の二名を含む五名の古典現代語訳担当作家による連続講演を書籍化したもの。それぞれの現代語訳を読んだ方はもちろんのこと、人気作家のエッセイアンソロジーとして読むことも出来ます。


古事記
『日本文学の特徴のすべてがここにある』(池澤夏樹)
――――
 日本人の心性は、『古事記』の昔からあったのだと思います。やまとごころ、もののあわれ、無常観、日本文学の特徴とされるものは、すべて『古事記』に見つけることができます。日本文学は、それを洗練させながら、連綿と伝えるいとなみでありました。
――――
単行本p.36

 成立過程、編集、速度と文体、といった様々な観点から『古事記』を語ります。天皇礼賛の書という評価は正しいか、各国の神話との比較、そして古事記に表れた日本人の心性、といった話題が次々と。


日本霊異記・発心集
『日本の文学はすべて仏教文学』(伊藤比呂美)
――――
 どの話でもそうなんです。先ほどの「邪淫の縁」だと、セックスで死んだ二人の話の後に、背骨の柔らかい男は自分の口でマスターベーションするものだなんて言ってる。それを読んだあたしたちは、なるほど! なんて全然思わないですよね。(中略)
 景戒さんは、背が低くて、なんだかキュートで、頭がよくて、セックスが好きで、好きだってことを平気で言える、いい男でした。そんな人が考えたことですから、奇妙なコメントにも何か目的があったはず……。
 それで行きついたのが、仏教です。
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単行本p.66

 エロ満載、あるがままの人間の業を描いた仏教説話集『日本霊異記』について、そして日本文学は仏教とどのように関わってきたのか、思い入れたっぷりに語ります。
「みんな、町田さんのばっかり読んでるみたいですけど、あたしのもじっくり読んでくださいね。百年後にも残るクラシカルな訳、をしたつもりですから」(単行本p.64)


竹取物語
『僕が書いたような物語』(森見登美彦)
――――
『美女と竹林』というタイトル、この美女はやはりかぐや姫をイメージしていました。それに僕がデビューしてから今まで書いてきた小説には、片思いをして右往左往するアホな男たちが多かったです。『竹取物語』から千年の時がたっているとは思えないほど同じですね。
――――
単行本p.103

 キャラクターを立てる工夫、和歌をどうやって現代語に訳すか、など『竹取物語』の翻訳にあたって工夫したところを解説してくれます。


宇治拾遺物語
『みんなで訳そう宇治拾遺』(町田康)
――――
 破格な翻訳です。でも、ただ形を壊そうとか、元の話を裏切ってやろうとか、とにかくむちゃくちゃやればいいとかいうわけではないんです。原文を読んで、おもしろい、楽しい、なんでこうなるの? と思った気持ちがやっぱり大事です。そして自分で訳してみて、この訳文ええやんけ、とおもしろがれる気持ちが大事です。単なる破壊じゃあ、なかなか楽しくできませんから。
 けっこう遊べます。やれと言われてやった仕事ですけど、『宇治拾遺物語』の翻訳はおもしろいばっかりでした。こんなんで金もらえるんやったら一生これやるわ、と思いましたね。
――――
単行本p.144

 話題沸騰、伊藤比呂美さんをして「町田コロス!」と言わせた名訳はどのようにして出来上がったのか。実際に翻訳してみよう、ということで、様々なコツを伝授してくれます。


百人一首
『現代に生きる和歌』(小池昌代)
――――
 このように和歌はいろいろな解釈ができるものですから、踏み分けて、踏み分けて、奥に入っていくときりがない。でも、いろいろ知って、たくさん読んだ後に、また素直な気持ちで一首に帰ってくる。すると前よりも、もっと耳が立ってくる。
――――
単行本p.161

 百人一首から六首をとりあげ、その解釈の試みを通して、和歌の「きりもない奥の深さ」と「微妙なところでの受け取り方の変化」を解説します。



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