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『Life in the Desert 砂漠に棲む』(美奈子アルケトビ) [読書(随筆)]

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ほとんど毎晩、安くておいしいサンドウィッチを買って砂漠に出かけていた。8月のある夜、食事をした後、砂丘の上で寝転んで話していると、その日はたまたま流星群の日だったらしく、流れ星が次々に流れ、ふたりで明け方までそれを数えた。その時にオットは「ここに家を建てよう」と思ったそうで、その場所に今私たちは住んでいる。
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 ガゼル、イヌ、ハト、ウマ、ウサギ、ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、オット、ネコなど200個体の家族と共に砂漠に棲んでいる著者による、砂漠と動物たちの美しい写真集。単行本(玄光社)出版は2017年4月です。


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 アラブ諸国にも、UAEにも、イスラム教にも、砂漠にも、まったく縁がなく、興味もなく、知識も偏見もなにもない、まっさらな状態でオットと知り合い、ほぼまっさらなままでここに来た。(中略)よく「結婚を決めるのに不安はなかったのか」と聞かれるけど、UAE人と結婚してアル・アインに住んでいる日本人は多分いないと聞いた時には、「初めての日本人!」と、わくわくした思いしかなかった。
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 結婚してアラブ首長国連邦UAEのアル・アインに移住した「初めての日本人」である著者。それだけでもすごいのに、さらに砂漠に家を建て、そこで200個体の家族と共に暮らしているというから驚きです。

 本書は、そんな著者による、美しい砂漠の光景や家族の写真を集めた写真集です。全体は四つの章から構成されています。


「砂漠」
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13年という長い付き合いをしてきた砂漠は、天候、空の色、時間帯と、その時々に違う顔を見せ、一度として飽きたことはなく、荒れ狂うような砂嵐も、時に見とれてしまう。
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 砂丘をとりまく風紋、砂の平原を包み込む霧、ラクダの隊列、撥ねるガゼルたち、砂漠の地平線から昇りゆく太陽。息をのむような砂漠の光景が広がります。「ラクダやロバが当たり前のようにわが家の裏を散歩してゆく」という砂漠の暮らし。


「家族」
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わが家の家族構成は、私とオット、ほかは、カゼル、イヌ、ハト、ウマ、ネコ、ウサギ、ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジ、ニワトリと、全て動物。約200の命と顔を合わせる毎日である。ラクダやウシは売ることもあるし、ヤギやヒツジやニワトリは食べることもある。ざっと数えて60匹のネコたちは、ほとんどが外で自由気ままに過ごしていて、ふらっといなくなり、またふらっと帰ってくる者もいる。そんな彼らも、私たちは「家族」と呼んでいる。(中略)ただ「かわいいね」だけで済ませるわけにはいかない存在。それが私たちにとっての「家族」。
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 「オットのことを母と思って育った」ガゼルは家の中で堂々と昼寝し、「著者のことを自分の妻と思っている」ハトは“ライバル”であるオットを追い出そうとし、ラクダの子供たちは“幼稚園”に集まって遊び、ネコは砂漠をどこまでも歩いてゆく。家族である動物たちの活き活きとした写真が掲載されています。


「暮らし」
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家の土台になっている砂丘は、崩れないように4ヶ月かけて地固めし、砂漠の地下を流れる地下水をいただいて生活している。家は自分たちで設計し、タイル、窓、ドア、照明、洗面台、鏡などは、あちこち歩き回ってひとつひとつ探し、自分たちでデザインもし、時には「これは失敗だったね」ということもあるけれど、ふたりの好きなものがそこここに詰まっている。
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 玄関、門扉、別棟(ゲストハウス)、そして様々な家具や調度品の写真が掲載されています。当たり前のように居間で寝ているガゼル。


「そして人生は続いていく」
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砂漠に棲むことも、動物たちと本気で向き合う生活を送るなんてことも、想像すらしていなかった。今日の鮮やかな夕日に映えた風紋と同じものを見ることは二度とない。明日も同じように一緒に散歩するつもりだった家族に、突然、永遠に会えなくなることもある。(中略)特別なことはない、淡々とした、でも、いつまでもこんなふうに続いていくとは限らない、ぎゅっと握っていたくても、いつでも簡単に手からこぼれてしまいそうな日々が愛おしい。この本に収めた写真はどれも、私にとって日常を切り取ったものだけれど、ひとつひとつに、そんな想いが詰まっている。
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 あとがき。結婚に至るまでの話や、アル・アインの位置を示す地図(意外にドバイに近い)、オットと二人で写っている写真、ガゼルたちの名前リストなど。



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『まぬけなこよみ』(津村記久子) [読書(随筆)]

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まぬけな人が一年をぼんやり過ごしている、というコンセプトで、約三年の連載を編集担当さんに迷惑をかけながらやりおおせたわけなのだけど、読み返してみると、まぬけであるのと同じぐらい、昔のことを思い出しているな、という印象がある。(中略)
 特に、父方の祖母について文章を書くのは、たぶんこれ一度きりになるのではないかと思う。
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単行本p.296


 二十四節気/七十二候に関するテーマを毎回ひとつ選んで書かれた連載エッセイ。単行本(平凡社)出版は2017年4月、Kindle版配信は2017年4月です。

 歳時記をテーマとした『くらしのこよみ』のまぬけ版、という趣旨で連載されたエッセイなのですが、個人的には、ご自身の過去について詳しく書かれていることが要注目でした。

 津村記久子さんの子供時代や学生時代については漠然としたイメージを持っていたのですが、よく考えてみればそれらは『まともな家の子供はいない』や『ミュージック・ブレス・ユー!!』といった小説から勝手に作り上げたもの。では、実際にはどんな子供だったのでしょうか。


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 わたしの小学校低学年における記憶の二割ぐらいは、ぶらんこ関係のことだと思う。ぶらんこが楽しかった。何々ちゃんはぶらんこをよく押してくれてとてもありがたい人だった。ぶらんこから落ちて膝を擦り剥いた。ぶらんこから落ちて真下に埋まっていた石で頭を打った。ぶらんこの近くで遊んでいてぶらんこ自体で頭を打った。(中略)わたしにとっては、ぶらんこをリラックスしてこぐなんて、時間の無駄でしかなかった。ぶらんこに乗ったからには、いつも本気だった。
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単行本p.105、106


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 帰り道に花を食べる友人の正体も、ぜひ知りたかった。わたしの記憶の中の彼女は、永遠に小学一年で、前世はチョウかミツバチだったんじゃないかというほどの手練れだった。不意に断たれた物心がつく前の友情は、いつまでも美しく、そして不思議だ。
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単行本p.127


 「自分の人生には無用に思える」「思い出したくないこと」「できれば通過せずに子供時代を過ごしたかった」「「嫌い」ではなく「うんざり」」などと率直に語られる父親のこと。そして祖父母のこと。両親の離婚と引っ越しのこと。様々なことが語られています。

 学生時代の話としては、何といっても高校受験の話題が印象的です。


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高校の私立の試験に落ちたら死のうと思っていた。本当に思っていた。二月のはじめの頃に受けた私立は、すべり止めの高校で、本命ではなかったものの、だからこそ深刻だった。極端なことを言っているようだけれども、同じ考えだった人はけっこういると思う。(中略)これに落ちたら死のう、と思っている試験なので、それはもうたくさんのことを覚えている。
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単行本p.52、53


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その日は卒業式だからもういい無礼講だ、という理由で塾を休み、友人の家の近所の公園でドッヂボールをしていた。式典のことはぜんぜん覚えていないくせに、この時の様子や気持ちははっきりと思い出せる。あんなにちくしょうと思いながらボールを投げていたのは、あの瞬間以外ない。もういい、何もかもいい、自分は数日のうちに死ぬ、受験に落ちて死ぬ、だから今は思い切り遊ぶぞうおおお。その「遊ぶ」の象徴が公園で球技。しかし、その後先のないプリミティブさが、わたしとしては本質的な意味での「遊ぶ」であった。
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単行本p.78


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 わたしと友人たちは、サルのように遊びまくった。中学を卒業させられ、受験の本番もまだ(すべり止めには受かっていたが、本当の集大成ではない)という状況で、我々には明日などないとばかりにボールを投げ、ぶつけまくり、よけまくった。わりと簡単に、明日はないなと思うのだけれども、あの時ほどやけになったことはない。なので本当に、歌などに歌われる情緒的な卒業など糞食らえだと思っていた。受験のことばっかり考えていたが、もうこの日ばかりはと塾を休んでギャアギャア言いながらドッヂボールをする。このやけくそ感がリアルな卒業なのであるし、今もそう思っている。
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単行本p.78


 他には、何かが好きだ、という話題にはインパクトがありました。例えば、じゃがいも。


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幼稚園の時に連れて行ってもらったマクドナルドのフライドポテトに始まり、このお肉でもケーキでもない食べ物は、さして主張しないわりにどうにも魅惑的だ、と小学生の時に考え始め、茹でてもよし、レンジでふかしてもよし、ぐずぐずにつぶしてもよし、というユーティリティ性、塩をつけただけでもおいしく食べられる手軽さに安心感を覚え、お肉やケーキが高くて買えなくなる日が来ても、じゃがいもだけはきっと裏切らないだろう、と思いながら生きてきた。ただじゃがいもをよく食べていそうという理由だけで、自分はドイツ人に生まれるべきだった、と悩んだ時期もあった。
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単行本p.95


 しかし、本当に心を打つのは何といっても「ふとん」への愛でしょう。


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 仕事が終わって朝方にふとんに入ると、幸せと安堵のあまり、なんだかわけがわからなくなってきて、ざまみろ的な気分になって、ヒヒヒヒなどと言い出す。会社員だった頃は、帰宅してカバンを下ろし、部屋着に着替えると同時に突っ伏し、「今日も帰ってきたよぅおおぉ」だとか「いつもありがとうございますぅう」などと訴え、しまいに、「ふーとーん、ふーとーん」と枕を叩いてふとんコールをしていた。どうかしているのだが、それがなんだというのだ。
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単行本p.252


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 ふとんにぐるぐる巻きになるのがとにかく好きだ。ちゃんと端っこから自分を巻いていく。そして頭の方のをちょいちょい丸め込んで、完全にふとんの中に入ってしまう。自分がふとんになったような気がする。もしくは、巻き寿司の具、もしくは、まるごとバナナのバナナになった気がしてくる。しかし、やはり決定的な「ふとんぐるぐる巻きの自分」のセルフイメージは、ミノムシかと思われる。わたしはふとんの暗闇の中で、「…………」と口を開ける。一応生きてはいるのだが、微動だにしない。「…………」。何もしない。何も考えない。幸せである。やがて外側から見た、わたし自身を丸めこんでしまったふとんを想像する。それこそが真の姿であるように思える。ふとんの中に包まれている自分こそが、完全体であるような気がしてくる。普段のわたしは、仮の存在に過ぎない。本当はわたしは、ミノムシなのである。
 そういうわけで、人類の中では比較的、ミノムシを意識して生活しているほうだと思う。
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単行本p.250


 読んだとき「わかるわかる」と共感したのですが、書き写しているうちに、いやそこまでは……、と自分の心が引いてゆくのを感じました。

 という感じで、季節や歳時と暮らし、昔の思い出、好きのこと嫌いなこと、などが書かれてゆきます。ほとんどが「まぬけな人が一年をぼんやり過ごしている」というコンセプトに沿ったのんびり脱力エッセイですが、ときに鋭い言葉が胸に刺さることもあって一筋縄ではいきません。


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 それにしても、心とはいったいなんなのだろう。どんなはたらきをするのか。悲しむものか、喜ぶものか。悼むものか、勝ち誇るものか。わたしは、突き詰めると、人間の中の世界が通り抜けていく場所、そうして捕まえた光のようなものを記憶して攪拌し、反射する場所を心というのではないかと思う。言うなれば、中村一義が〈1、2、3〉で歌った「光景刻む心」が、バスク人のサイクルロードレーサーであるアントンの中にもあって、それが彼に「何か天国のようなもの」を見せたのである。わたしには、そういうことを知る体験が、心というものが他者の中にも存在するということを実感する端緒であるように思える。
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単行本p.280



タグ:津村記久子
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『ガラス細工の至宝』(笙野頼子)(『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)収録) [読書(随筆)]

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 ネオリベラリズムの、自由貿易推進を建前にして、国家主権を侵す人喰い条約。憲法は民草を人間と見做すけれど、人喰いは資材、数字、搾取の対象としか思っていない。まさに根本的な対立である。そして憲法は、暴力団のようなIMFと使い走りのような日本の裁判官(中村みのり)から、笑って蹴り殺せるレベルにされてしまうだろう。それでも、このひどい国で生きる者のお守り本尊、国宝と言える。それは多数決が正義で人柱頼みの人喰い国家日本において、家庭や社会さえ守ってくれない人間を守る、最後の命綱だ。
(中略)
 憲法が理想に過ぎないなどと言ってはならない。本質論よりも、理想を守りにして、すべて今あるものを少しでも守るのだ。
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単行本p.135、136


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第111回。

 家庭や社会さえ守ってくれない人間を守る、最後の命綱。それが人喰い条約によって喰われようとしている。『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)に収録された危機感ほとばしる4ページの訴え。単行本(岩波書店)出版は2017年4月です。


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 TPP交渉差止・違憲訴訟の会に入っている。この一月、七回目の口頭弁論が終結した。審議は、まったく尽くされていない。裁判官も急に変わっている。国はリセットのつもりでしたのだろう? このような、……。
 悪魔の、地獄の、国民奴隷化の植民人喰い条約、それを批准してしまった場合に起きる憲法上の問題点、むろん、そこを、会は糺しているのである。
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単行本p.134


 憲法をテーマに、学者、俳優、芸術家、作家、経済人など53人が書いた文章を集めた一冊、『私にとっての憲法』(岩波書店編集部:編)。多くの論者が、現実味を帯びてきた憲法改正について論ずるなか、『ひょうすべの国』の著者である笙野頼子さんは、TPPおよびその類の条約による「事実上の憲法停止」の危機について警鐘を鳴らします。


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 憲法、それはTPPによって、或いはまた今後いくらでも襲ってくるいくつもの人喰い条約によって、底を抜かれる桶のようなものに「過ぎない」のだ。いくらたがを嵌めても、水を汲めなくなる。
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単行本p.135


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世界銀行に突っ込んでいるお金だけは世界第二位、女性の地位にかんしては百十何位? そういう国において、内閣は今から民のお金を、否、お金ばかりか、人権、福祉、雇用条件、家族、児童、つまりは憲法の人間性を丸ごと喰っていく。放置すれば日本の支配者は多国籍企業の、「無名」の「会社員」がつとめる事になる。
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単行本p.137


 改憲に前のめりになっている政府も恐ろしいのですが、むしろ改憲論議に気を取られている間に、国際条約による「事実上の憲法停止」の準備が着々と進められていることの方がずっと恐ろしい。

「TPPって流れたんじゃなかったっけ?」、「なんで貿易条約が憲法と関係するの?」、「そもそもどうしてこんなに危機感を持ってるの?」などと思った方は、ぜひ笙野頼子さんの小説『ひょうすべの国』をお読みください。紹介はこちら。

  2016年11月29日の日記
  『植民人喰い条約 ひょうすべの国』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2016-11-29



タグ:笙野頼子
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『野良猫を尊敬した日』(穂村弘) [読書(随筆)]

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 自宅のパソコンでインターネットができるようになった。動画を見たり、原稿を送ったり、なんて快適なんだ。みんなはずっと前からこんな便利な暮らしをしてたんだなあ。
 そういう私は今までどうしていたかというと、駅前の漫画喫茶のネットを使っていたのだ。多い日は昼と夜と明け方の三回通ったこともある。傘もさせないような嵐の中をずぶ濡れで辿り着いたこともあった。(中略)

編「そんなに便利だと思うなら、どうして今まで自宅にインターネットを引かなかったんですか?」
ほ「手続きとか、めんどくさくて……」
編「えっ。漫画喫茶に毎日通う方がずっとめんどくさいでしょう?」

 全くその通り。でも、私が云ってるのは、めんどくささの総量ではなくて、目先のちょっとしためんどくささのことなのだ。そのハードルが越せないために、結果的に大きな利子を払い続けることになる。
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単行本p.176、177


 自宅にインターネットを引くのが面倒なので毎日駅前の漫画喫茶まで通う。知人宅に泊まるとき不安でびびり上がり、帰宅した夜に「おねしょ」してしまう。誰もが簡単にやってしまうことが自分には出来ない。なぜなのかを説明しても伝わらない。他人に分かってもらえない臆病さを抱えて生きる歌人による内気エッセイ集。単行本(講談社)出版は2017年1月、Kindle版配信は2017年2月です。


 その独特の感性でもって森羅万象を「想像しただけで怖くてとても自分には手が出せないもの」と「想像しただけで面倒でとても自分には手が出せないもの」の二つに鮮やかに分類してゆくようなエッセイ集です。


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警A「ご自宅はどちらですか」
ほ 「あそこです(指差す)」
警B「まだけっこうありますね」
警A「それに寒いでしょう」
ほ 「平気です」
警B「家に入ってからゆっくり着替えた方がいいのでは?」
ほ 「でも私は自宅にインターネットを引くのに十年もかかってしまったので、その分の時間を少しでも取り戻したいんです」
警Aと警B(顔を見合わせる)
警A「それで歩きながらシャツを脱いでるんですか」
ほ 「ええ」
警B「ちょっと署までご同行願えませんか」

 ああ、嫌だなあ。そんなことになったら。完全な誤解だ。でも、それ以上どうやって説明したらいいんだろう。だって、私の云ったことは、全部本当なんだ。本当に本当のことなんだよ。
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単行本p.182


 自分には何かが出来ない、あるいは自分には奇行癖があるのだがそれには自分の中でちゃんとした理由があって、というエッセイが多いのですが、変な自意識の在り方を訴えるエッセイも印象的です。


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 限定物以外に、生産中止となった商品にも弱い。これもうどこにも売ってないんだ、と思うと体がかーっとなって自分の物にしたくなる。
 最近では感覚の奇妙な逆転現象が起こって、自分のお気に入りのブーツやスニーカーなどが、早く生産中止にならないかな、と思ってしまうことがある。
 理屈で考えると、今のを履き潰したらもう買い替えることができないから、廃番になっては困る筈。でも、それよりも持ち物がレアな存在に「昇格」することに喜びを感じる自分がいる。
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単行本p.52


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「ほむらさんの好きそうな店ですね」
 むっとした。いや、彼の言葉は当たっている。現に私は「感じのいい店だな」と思っていたのだから。でも、それを見抜かれるのは嫌。指摘されるのはもっと嫌。(中略)
 つまり、こういうことだ。私はお洒落なカフェが好き。でも、お洒落なカフェが好きな人と思われるのは嫌。この気持ち、わかって貰えるだろうか。(中略)
私がどんな店を好きだろうが、どんな曲を好きだろうが、他人からすれば全くどうでもいいことだ。頭ではよくわかっている。でも、自意識の暴走が止められない。
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単行本p.130、131、132


 他人の目が気になる系のエッセイといえば、「男の幻滅ポイント」というやつ。


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 カチャカチャと他のキーで入力して、最後に「どうだ」とばかりに「エンタキー」を叩く。やりたくなる気持ちはわかる。だが、その瞬間、小さな「俺様」が顔を出しているのだ。
 女性たちはそれを見逃さない。一秒にも充たない行為によって、ああ、この人って本当は「俺様」に酔うタイプなんだ、と察知されてしまう。おそろしい。
 こういう機会があるたびに、メモメモと思いながら、私は憶えたばかりの幻滅ポイントを自分の手帳に書き込む。人生の参考資料だ。
 そこには他にもこんな項目が並んでいる。

・意味もなく、折りたたみ式の携帯電話をパカパカ開閉している
・携帯電話のメールアドレスがやたら長い
・ペンを廻す
・たくさん服を持っているくせに、組み合わせるボトムスとトップスが毎回一緒

 いずれも中級以上と思える内容で、読んでいるうちに、どんどん不安になってくる。
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単行本p.91


 歌人デビューする前後のことを書いたエッセイも印象的です。


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 でも、待っても待ってもどこからも連絡が来ない。ポストに入ってるのはチラシだけ。電話は鳴らない。おかしい。どこかで誰かが必ず見てる、はずじゃなかったのか。見てる人、僕はここにいるよ、見つけて、早く、早く。でも何も起きない。時間だけがどんどん過ぎてゆく。残業、残業、残業、爆睡。もしかして、本当は、見てる人なんていないんじゃないか。一生このままなんじゃないか。どこかで誰かが必ず見てる、って云ったのは誰だ。どうしてそんなひどい嘘を。
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単行本p.20


 最後に、表題作でもある『野良猫を尊敬した日』から引用しておきます。我に野良猫パワーを与えよ。


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 イヌネコと蔑して言ふがイヌネコは一切無所有の生を完うす    奥村晃作

 人間は犬や猫のことを上から目線で「イヌネコ」などと云うが、その「イヌネコ」は、お金も洋服もスマートフォンも何一つ所有することなく一生を過ごす。実はもの凄い存在なのだ。という意味だろう。
 本当にそうだなあ、と思った。彼らはその日の食べ物すらキープしていない。一瞬一瞬をただ全身で生きている。命の塊なのだ。
 よーし、やってやる。僕にだって、できないことがあるか。そう心を固める。我に野良猫パワーを与えよ。
 でも、眠りに落ちると、また元通り。「うーん、うーん、あついよー、あついよー、あついよー」と、赤ちゃんのようになってしまうのだ。どうして、こんなに弱いんだろう。
 気迫か。やはり気迫が違うのか。
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単行本p.219


タグ:穂村弘
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『大阪的』(津村記久子、江弘毅) [読書(随筆)]

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 そういうわけで、地方に行って、東京の人でも大阪の人でもない人と話すと、なぜか大阪の反省点のようなものが勝手に見えてくるようになったのだった。これは実は、仕事で東京と行き来する中では一切見えてこなかったものである。東京の人と話したり、東京で過ごしたりする分には、自分は「ありのままの大阪人」というなんだか迷惑な字面の生き物でいて結構、と思い込んでいたのだが、大阪でも東京でもない場所に行くたびに、大阪の欠点のようなものが思いだされるようになった。具体的に言うと、大阪つまらんと言い続けてきたけど、それは「住んでいるから」というエクスキューズなしにつまらん場所なのかもしれない、という危機感をはらんだ感情である。別にわたしが大阪の危機を憂おうと誰も気にしないわけだけど。
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単行本p.7


 大阪とは何か。大阪てなんやねんほんま。故郷である大阪を内と外の両方から見てきた作家と編集者が、大阪的なるものについて大いに語りあう一冊。単行本(ミシマ社)出版は2017年3月です。


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このへんの、「なんだか変なところでおとなしい」という感じは、大阪の次女っぽい部分を象徴しているのではないかと思う。長女には対抗意識がある。なんだったら自分のほうが美人やしと思っている。個性もあると思い込んでいる。でも本当は、六女や七女みたいに自由ではないし、個性もない。そのことはつゆ知らず、上ばっかり見ているうちに、どうでもいいところでは口数が多くてうざがられてるのに、見た目は誰かの真似で結局無難なだけになってしまっている。
 大阪は、自分で思っているほど美人でもないし、個性もないし、ましてや自由ではない。
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単行本p.17


 というわけで、生まれも育ちも大阪という二人による、大阪に対する屈託あふれる対談とエッセイをまとめた本です。全体は四つの章から構成されています。


「1.大阪から来ました」
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 長女へのコンプレックスを持った次女。自分は姉より美人だと言い聞かせながらも、どこかで姉の影響を振り切ることができない。姉のことをさしてかまわないという態度をとりつつ、わたしお姉ちゃんに似てる? とときどき誰かにたずねている。
 おばちゃんはあるいは、お姉さんのほうが美人やねと言われたことをずっと根に持っているのかもしれない。ときどき夜中に思い出して泣いているのかもしれない。
 わたしの大阪のイメージは、そういう屈託を持った女の人たちである。かわいいところもあるけどたまにめんどくさくて、めんどくさいけど料理がうまいので、ついつい話を聞いてしまう。
 でももう、そろそろ「お姉ちゃんのほうが美人やね」と言われたことは忘れたっていいと思うのだ。なぜならもう、人口では横浜市に抜かれてしまったのだから。日本の第二の都市ですらないんだよ大阪は。実は次女じゃなかったんだよこれが。
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単行本p.22

 津村記久子さんによる大阪エッセイ。大阪の、主にあかんとこを、ずけずけ指摘しまくります。


「2.どこで書くか、大阪弁を使うか問題」
――――
江 もし僕、慶應とか立教とか行ってたら、たぶんファッション誌なんかやってて、ごっつぅうっとうしい編集者になってたと思いますよ。もう、お洒落なだけのね。

津村 自分はすごい大阪におることを売りにしてるし、働いてたことも売りにしてるし、大阪で書き続けることも売りにしてる。今度は大阪に居ながら大阪じゃないとこに行って大阪人として振る舞って、もらってくるものも売りにしようとしてて、貪欲やなって思います。

江 いや、今僕なかなかええ質問した。それはね、なかなか言われへんことですよ。

津村 いやいや。

江 ほんまやって。自分わかってへんのとちがいますか。
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単行本p.51

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談。大阪という土壌が仕事に与える影響などを語り合います。


「3.大阪語に「正しさ」なんてない」
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 船場の商売人が話す言葉や北新地の古い花柳界、あるいは文楽や落語などの上方伝統芸能に携わる人々の言葉遣いが、正統的な大阪弁だとよく言われているが、それは間違いだと思う。大阪語あるいは大阪弁を話すこととは、東京の山の手言葉を「標準語」として措定し、誰もが「学校で教育され制度化された言葉」を話すこととは違う。大阪語に「正誤」なんてないし、「正しさ」を求めてもおもろくも何ともない。
(中略)
大阪弁というのはそれが「現に話された」現場と、そこから電車で一時間以内ぐらいの距離にあるところのそれぞれの違った「○×の大阪弁」があり、例えば阪神や阪急、京阪、近鉄や南海といった土地柄の違いによる「母語」の違いみたいなものをハッキリ区別できるのが、大阪語(関西語)話者の共通点である。それが大阪弁のテロワール(代替不可能な土壌)なのであろう。
――――
単行本p.67

 江弘毅さんによる大阪エッセイ、というか大阪弁エッセイ。大阪弁と土地との結びつきについて学術的に語ります。


「4.世の中の場所は全部ローカルだ」
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津村 高校の友だちがニューヨークに嫁に行ったんですけど、(中略)その子に「トランプってヅラなん?」って話をしたら、そんなん旦那にも友だちにも聞けないって言うんですよ。大阪の人やのに。絶対にその子、ヅラかどうか確かめてくれると思ってたのに。(中略)これが大阪の人だったら聞けるじゃないですか。「これはニューヨークに染まってしまったな」と思った。本当にヅラかどうかはわりとどうでも良くて、みんなヅラだと思ってるのかどうか、ってことを聞きたかったんです。

江 大阪のやつってヅラとか言うの好きやからな。俺もそんなん好きです(笑)。

津村 (中略)私は大阪におるから、トランプ見て「ヅラかな」とか言ってるけど、友だちはニューヨークに行ってヅラかどうかなんて聞けない雰囲気になる。どっちがいいかって言ったら、私は「ヅラかな」って言い続けたいと思いますけどね。

江 「邪魔じゃハゲ!」とか言うもんな、僕ら。ハゲてなくても七三分けでもハゲやもんな。
――――
単行本p.84、85

 津村記久子さんと江弘毅さんの対談の続き。大阪から見るグローバルとローカル、というテーマなんですが、ほぼ雑談に。


 以下余談。

 昨日の日記(http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-04-04)で紹介した『関東戎夷焼煮袋』(町田康)のなかに次のような一節があります。


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 津村記久子という大阪に住む小説家に、「京都に住まおうと考えたことがあったが、うどん玉が七十八円もして絶望、断念した。自分はうどん玉が四十円以下で買えぬ地域に棲むことはできない」という話を聞いたことがある。
――――
『関東戎夷焼煮袋』(町田康)単行本p.19


 ところが、本書の対談中、次のような発言が出てくるのです。


――――
江 津村さん、スーパーでうどんが三十円の土地にしかよう住まん、みたいなこと言ってはりましたよね。それがめちゃくちゃおもろくって。

津村 京都のね、友だちが下宿してるとこの近くでうどんがひと玉四十円して、びっくりしたんですよ。
――――
単行本p.81


 はたして京都のうどん玉は七十八円なのか、四十円なのか。津村記久子はうどん玉ひとつ三十円の土地にしか住めぬのか、それとも四十円以下ならOKなのか。さらに、この矛盾の原因は町田康の記憶違いなのか、それとも津村記久子が相手によって話を変えてるのか。

 おそらくこの問題はいずれ日本文学研究における一大論争テーマとなるであろう。将来のために、ここであえて指摘しておくものである。



タグ:津村記久子
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