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『去年マリエンバートで』(林和清) [読書(小説・詩)]

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沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
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虫襖といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな
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足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち
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くりかへし見る殺人の夢があるいつもはじまりは発覚の場面
――――
運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
――――
旅がかさなる夢がかさなる目の前の瀧に記憶の水が落ちる
――――


 嫌な光景、不安な記憶、忍び寄る鬱。心が沈んでいるときの感覚を生々しく伝えてくる抑鬱歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2017年10月、Kindle版配信は2018年2月です。


 まず、うつ状態、およびそれが迫ってくる気配をうたったと思しき作品が、どうにも強烈で、読んでいて苦しくなります。


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沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
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陽のあるうちから見てゐる空にひろひろと蝙蝠が闇を殖やしてゆけり
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気がつけば背後ひたひた気配して唐突に荒い息がかぶさる
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冬の雨のなかを走つてくる影ありいつしか人の骨を咬むもの
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見たことのない鬱の景色がかたはらに展けゐてビルの奥の細道
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かういふときに人は死ぬのかビル街の黄金の日日の無人の真昼
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 全体的に陰鬱な雰囲気の作品が並びますが、特に、他人および対人関係の嫌なところをストレートに表現した作品に、何というか、へこみます。


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虫襖といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな
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夜桜の青い冷えのなか酔ふ女を死にゆくもののやうに見つめる
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人間の廃墟が居りぬ自殺した友の葬儀にうすわらひ浮かべ
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人間には他人を死ぬまで傷めつけたい衝動があつて校庭の砂つぱら
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あいつらはペンギンがゐれば腹を蹴りフラミンゴがゐれば首をへし折る
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 なかでも鯉が登場する作品は、かなり嫌ーな感じ。


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ドイツ鯉がぬめつて肌に寄り来ると梅雨の末期の雨を籠りぬ
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足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち
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隅田川に逃れたひとは助からなかつた鯉鯉一面の鯉鯉
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 また、悪夢を題材にした作品もけっこう、きます。


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くりかへし見る殺人の夢があるいつもはじまりは発覚の場面
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運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡
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夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ
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時間がない車がない自転車の鍵がない! 夢にくるしむ畳寝の朝
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駆けてゐたはずの足はもうすでに水を何度も蹴るしかなかつた
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「ダリアが恐かつたあまりに大きくて赤くて爛れてて」過ぎ去つた夏
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 ときに嫌さの表現が、ついついユーモラスになってしまったような作品も。


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善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る
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ご遺骨をダイヤモンドにいたします明日は雨のち雪になります
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もう来ることはない家なのだリビングにチワワわななくわななくをる
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殺伐といふ形容は酷ではないこの路線は人を苛だたしめる
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数件のメールのなかに緊急がひとつある鰐がテラスに来てゐる
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 そして過去の記憶を扱った作品。


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目の端にひつじがゐるよ震へてる生まれたときから見てゐるひつじ
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ちいさいひとがいくにんも座つてゐたといふジャングルジムの鉄の格子に
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旅がかさなる夢がかさなる目の前の瀧に記憶の水が落ちる
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やり直すことができるかあの午後の亀が眠れる池へ戻つて
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 というわけで、鬱の気配を引き寄せそうで、ちょっと怖い歌集です。



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『ドローンで迫る伊豆半島の衝突』(小山真人) [読書(サイエンス)]

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 近年注目を浴びているマルチコプター(いわゆる「ドローン」)は、GPSなどの衛星測位システムによる自動位置制御のおかげで操縦が簡単な上に、搭載した無線制御カメラを用いて上空のさまざまな方角から地表を撮影できる。このためヘリやセスナをチャーターしなくても自前の航空写真が安価に撮影可能となっただけでなく、有人航空機では不可能だった低空からの近接撮影という未開の領域への扉も開かれた。
 この本では、ドローンを用いてさまざまな地形・地質の特徴をとらえた画像を紹介・解説する。被写体として選んだのは、筆者の主要な研究フィールドである富士山と伊豆半島、ならびにその周辺地域である。
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 地表からはアクセス困難な地形も、手軽に、安価に、そして低空からの近接撮影すらも可能にしたドローン搭載カメラ。この新しい技術を用いて撮影された火山噴火や崩落地形などの臨場感あふれる航空写真を多数収録したサイエンス本。単行本(岩波書店)出版は2017年12月です。


 掲載されているのは富士山と伊豆半島をとらえた航空写真ですが、まず風景写真として美しく、迫力があります。さらに添えられた解説が、地学的に興味深い情報を伝えてくれます。全体は5つの章から構成されています。


[目次]
1 富士山の噴火と崩壊(活火山・富士/山麓に達した溶岩 ほか)
2 伊豆半島の成長と衝突(火山の野外博物館/隆起した海底火山 ほか)
3 荒ぶる火山帯(箱根火山と大涌谷/火山島・伊豆大島 ほか)
4 本州側の隆起と変容(揺れ上がる大地/大地震が起こす巨大崩壊 ほか)
5 ドローン撮影の威力(災害現場でのドローン撮影ー2016年熊本地震の例/海外でのドローン撮影ー英国形成の長い歴史)
付記 国内外でのドローン撮影のためのメモ


「1 富士山の噴火と崩壊」
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 富士山は、およそ10万年前の誕生以来、山頂や山腹の火口からおびただしい量の溶岩を流し続けてきた。それらの溶岩は、時には谷をせき止めて湖を誕生させたり、それまであった湖を埋め立てたりして、麓の地形を大きく変化させた。名瀑をつくり出したり、柱状節理などの美しい造形を生んだ溶岩流もある。
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単行本p.14

 火口、溶岩流の跡、大沢崩れなど、地表からの接近が困難な富士山のさまざまな地形を鮮やかにとらえます。


「2 伊豆半島の成長と衝突」
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 伊豆半島の地表には過去2000万年間の地層・岩石が分布し、本州と衝突する以前の、はるか南方にあった頃からの克明な地質学的記録をたどることができる。
 それらの下部を占める地層・岩石は、海底火山の噴出物とそれらの二次堆積物、ならびにマグマが火山の地下で冷え固まった貫入岩からなる。かつて海底下にあったこれらの地層・岩石は、本州への衝突による隆起と浸食によって、伊豆半島の陸上に広く露出している。
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単行本p.42

 フィリピン海プレートに乗って本州と衝突している伊豆半島。衝突によりつくり出された景観とその地学的意味について解説します。


「3 荒ぶる火山帯」
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 本書ではすでに富士山の2つの山体崩落を紹介したが、それよりもはるかに規模の大きい山体崩落を起こした火山をここで紹介する。八ヶ岳である。
 甲府盆地の北西端にある韮崎付近の台地は、20数万年前に八ヶ岳が起こした熱い岩屑なだれ(韮崎岩屑なだれ)の堆積物でできている。同じ堆積物が甲府盆地の南端でも見つかることから、50km以上の距離を流れて甲府盆地を埋め尽くしたことがわかる。その総体積は100億立方メートルという途方もないものである。
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単行本p.83

 噴火、山体崩落など激しい火山活動の跡が残された地形や風景とその成立過程を解説します。


「4 本州側の隆起と変容」
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 1707年宝永東海・南海地震(マグニチュード8.7)の際に安倍川源流の静岡・山梨県境にある大谷嶺(標高2000m)付近で起きた大谷崩は、1億立方メートルもの土石を流して長さ5kmに及ぶ土石流段丘を形成するとともに、安倍川本流と支流にせき止め湖を誕生させた。そのうちのひとつは明治初年まで残存していた。
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単行本p.101

 伊豆半島と本州の衝突により、大きく隆起している地形が本州側にも生じている。地面の隆起と浸食、大地震による崩落などの痕跡を解説します。


「5 ドローン撮影の威力」
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 ここでは熊本地震を例として、災害現場におけるドローン撮影の威力を紹介する。
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単行本p.118

 2016年熊本地震や英国の例をもとに、高所や地表からの撮影では十分に判別できない地形やその変化の詳細を、超低空から撮影することで明らかにできるドローン撮影の威力を示します。



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『キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち』(ペネロープ・バジュー、関澄かおる:翻訳) [読書(教養)]

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 哀しみも、愛する喜びも、立ち向かい続ける強さも、私たちはみんなこの胸に持っています。でもいろんなことに忙殺される日々の中でそのことを忘れてしまって、まるで自分がひとりぼっちみたいに思えてしまったりもします。そんな時こそ、この『キュロテ』を開いて、聞いてください。あなたは、私たちは、ひとりじゃないよ。わかるよね? 紀元前の彼方、地球の反対側、はるか遠くから投げかけられ続けている声を。
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単行本p.147


 権力と命がけで戦った女性、ショービジネス界で一世を風靡した女性、不朽の名作を残した女性。社会の偏見に屈することなく、自由や誇りや愛を貫いてみせた偉大な女性たち。男のための「世界の偉人伝」からは無視される彼女たちの鮮烈な生きざまを、美しい絵と文章でうたいあげるグラフィックノベル。単行本(DU BOOKS)出版は2017年11月です。


 まずは、瀧波ユカリさんによる『臨死!!江古田ちゃん』のアグレッシブな解説から。


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 女はこのように笑い、怒り、楽しみ、泣き、哀しみ、絶望し、そして前へ進んでいく。どう? 物珍しいでしょう? だってこれは全て、あなたたち男性が見ようとしないこと、無視し続けていることなのだもの。馬鹿な女の赤裸々ストーリーだと思って、消費してくださってもかまいませんよ。そんなあなたたちの姿勢すら、ネタにして差し上げますから。そんな喧嘩腰なスタイルで、私はそのデビュー作を男性誌で10年描きました。
――――
単行本p.146


 偏見に屈しない女、好きなように生きる女、逆境の中で戦い続ける女。「男性が見ようとしないこと、無視し続けていること」、そんな女性の生きざまを描いたグラフィックノベルです。取り上げられている偉人は、次の15名。


・ヒゲで一世を風靡したバーの女主人 クレモンティーヌ・ドゥレ
・最強&最凶!列強の侵略から小さな祖国を守り抜いたアフリカの女王 ンジンガ
・“西の悪い魔女”を演じた、心優しきホラー女優 マーガレット・ハミルトン
・国の平和に身を捧げた美しき3姉妹 コードネーム: ラス・マリポサス(ミラバル姉妹)
・言葉通りの“永遠の愛”を貫いた女性 ヨゼフィーナ・ファン・ホーカム
・勇猛果敢なアパッチ族の女戦士 ローゼン
・“水中のヴィーナス”と呼ばれた、水着の開発者 アネット・ケラーマン
・アフリカ大陸を横断した初の女性冒険家 デリア・エイクリー
・人種差別と戦い、孤児救済に尽力した黒人ダンサー ジョセフィン・ベイカー
・大人気キャラクター「ムーミン」の生みの親 トーベ・ヤンソン
・古代ギリシャ初の女性医師 ハグノーディケー
・DV夫に別れを告げ、祖国を救った平和運動家 リーマ・ボウイー
・アメリカ最古の灯台を守った老女 ジョージナ・リード
・性別適合手術を世に知らしめた“女性" クリスティーン・ジョーゲンセン
・中国史上唯一の女帝 武則天(則天武后)


 絵と文章で描かれた伝記。最後に見開きでカラー絵がついているのですが、これが素晴らしい出来映え。個人的には、絵だけでなく、文章の力にも注目してほしい。ときにストレートに、ときに辛辣な皮肉をこめて、女性の功績をしばしば無視する社会に対して異議申し立てしてゆく。それは女性の読者を、男性の読者だって、勇気づけ、命を救う言葉なのだと思います。


――――
どうせ珍品扱いなんだから、と
人前では気さくで陽気な有名人を演じつつ
自らの尊厳を守り、女性としての人生を
淡々と歩んだクリスティーン

(ほら、笑って★)

好奇の目にさらされながらも
常に凛としていた

彼女は、ほかのみんなも
自分らしく生きられるように
あらゆる困難を乗り越え
自ら広告塔となったのだ

「世の中を変えたとまでは
言わないけど、時代のお尻を
けっ飛ばすくらいはしたわ」
――――
単行本p.133


――――
トーベはムーミンのすべてを
弟のラルスに託した
(以後、物語は彼が執筆した)

そして、残りの人生は
好きなように作品を描いて
タバコを吸って、旅をして
トゥーリッキとの時間に費やした

まるでムーミン一家がクレープを焼いて
ピクニックに出かけて、物語を語って
お互い世話を焼くように

ほかのことは
どうでもいいかのように
――――
単行本p.93


――――
武則天は81歳で崩御
墓碑には彼女の
生前の功績が刻まれる
はずだったけど――

いまだ何も
記されていない

何世紀もの間、歴史学者は
秘密警察や政敵排除のこと
ばかりを強調し、中国版・ハートの
女王のように描いてきた

「枕営業までしてたってよ!」

けど、見方を変えれば
武則天の短くはかない王朝は
政争を除いておおむね平和であり
様々な分野(芸術、社会制度改革
など)で、実は中国史上
最も進んでいた時代とも言える

逆に、何かというと
(アリエナイこととして)
彼女が“オソロシイ”、
“ガンコ”な“野心家”
だったとされるの……

歴史上、
皇帝のほぼ全員に
共通する性格
(で、ほめ言葉)
なんだけどね……

「中国史上、
たったひとりの女帝に
それを認めるのは
難しいらしいわ」
――――
単行本p.143



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『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』(マーク・カーランスキー、川副智子:翻訳) [読書(教養)]

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 紙を作れるか否かを文明の指標とすると、びっくりするほど今までと異なる、だが、まちがってはいない歴史絵図が出現する。この見方にしたがえば、文明は紀元前220年にアジアに始まり、アラブ世界へと広がっている。アラブ人は何世紀ものあいだ世界の支配的な文化の担い手だった。一方、ヨーロッパ人は地球上もっとも遅れていた。字を読めず、科学の片鱗もなく、単純な計算もできなかった。交易の記録にすら紙の必要を感じていなかった。
(中略)
 のちの歴史でヨーロッパが躍進し、アラブとアジアの競争相手より優位な位置につくことができたのは、中国の発明である可動活字に負うところが多い。ヨーロッパ人が可動活字を自分たちのために役立てられたのは、アジア人やアラブ人とはちがって可動活字に非常に適した文字体系をもっていたからだ。こうしてヨーロッパ人は、自分たちにとって望ましい形で後世の人々に読まれるような歴史を書き残すことになる。
――――
単行本p.15、16


 記録したい。人間だけが持つこの根源的な欲求につき動かされるようにして生まれた「紙」という記録媒体。それは、その後のあらゆる歴史に深く関与してゆくことになる。世界各地における紙の歴史を通じて、テクノロジーと社会変化の関係を洞察する一冊。単行本(徳間書店)出版は2016年11月です。


――――
 紙の歴史を学ぶことは歴史上の数々の誤解を白日のもとにさらすことでもある。とりわけ重要なのがここで問題にしているテクノロジーにまつわる誤解、すなわち、テクノロジーが社会を変えるという認識である。じつはまったくその逆で、社会のほうが、社会のなかで起こる変化に対応するためにテクノロジーを発達させている。
(中略)
 ひとつの新しいテクノロジーが社会に対してなにをするかを警告することはだれにもできない。なぜなら、そのテクノロジーを導入した時点で社会はすでにつぎの段階へ移行しているから。マルクスがラダイトについて指摘したのはそこだった。テクノロジーは促進役にすぎない。変わるのは社会であり、社会の変化が新たな需要を生む。それが、テクノロジーが導入される理由である。
――――
単行本p.8


 全体は序章と終章を含めて20個の章から構成されています。


「序章  テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのこと」
「第1章 記録するという人間だけの特質」
「第2章 中国の書字発達と紙の発見」
「第3章 イスラム世界で開花した写本」
「第4章 美しい紙の都市ハティバ」
「第5章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ」
「第6章 言葉を量産する技術」
「第7章 芸術における衝撃」
「第8章 マインツの外から」
「第9章 テノチティトランと青い目の悪魔」
「第10章 印刷と宗教改革」
「第11章 レンブラントの発見」
「第12章 後れをとったイングランド」
「第13章 紙と独立運動」
「第14章 ディドロの約束」
「第15章 スズメバチの革新」
「第16章 多様化する使用法」
「第17章 テクノロジーの斜陽」
「第18章 アジアへの回帰」
「終章  変化し続ける世界」


「序章  テクノロジーの歴史から学ぶほんとうのこと」
「第1章 記録するという人間だけの特質」
――――
 人類の歴史におけるテクノロジーの推移を見渡しても、話し言葉から書き言葉への変化に匹敵するほど大きな移行があるだろうか?
 ところが、その移行があってからは、社会はもはや高価で生産ペースの遅い書写媒体ではやっていけなくなった。蝋の処分しやすさと、葉の軽さ、粘土の安さ、そして羊皮紙の耐久力をも兼ね備えた素材が求められていた。
――――
単行本p.46

 古代における記録媒体の歴史を振り返りつつ、「新しいテクノロジーの登場により社会が大きく変化するのではなく、先に社会の変化が起こり、その需要により新しいテクノロジーが開発されるのだ」という本書全体を貫く歴史観を解説します。


「第2章 中国の書字発達と紙の発見」
――――
 紙というものがどうして発案されたのかはいまだ謎である。紙以前の書写媒体とはなんの関わりもない。(中略)どんな思考回路から生まれたにせよ、紙が長い進化の過程をたどったのはたしかだろう。どこかのひとりの天才がぱっと思いついたとはとても考えられない。
――――
単行本p.55、56

 古代中国における四大発明のひとつ「紙」の発明について、現在までに判明していることをまとめます。


「第3章 イスラム世界で開花した写本」
「第4章 美しい紙の都市ハティバ」
「第5章 ふたつのフェルトに挟まれたヨーロッパ」
――――
 錬金術、天文学、工学、数学の書物はアッバース朝のもとで隆盛を迎えた書物のほんの一部だった。当時のヨーロッパでは数百冊の蔵書があれば大図書館である。スイスのザンクト・ガレン修道院付属の図書館の蔵書は四百冊、十二世紀フランスのクリュニー修道院は五百七十冊。一方、同時代のアラブの図書館は私設でさえ何千という蔵書があり、何十万冊を所蔵するところまであった。
――――
単行本p.92

 アラブ世界、およびヨーロッパにおける紙の歴史を概説します。


「第9章 テノチティトランと青い目の悪魔」
「第12章 後れをとったイングランド」
「第13章 紙と独立運動」
――――
 メソアメリカ人が真の意味での紙を作っていたかどうかは議論が分かれている。もし作っていたなら、彼らの文明は中国以外で唯一、紙を発明していたことになる。その点に疑念が抱かれるのは、メソアメリカ文明がスペイン人によって徹底的に破壊されたために、現代のわたしたちがどうしても知り得ないことが多々あるという事実に起因している。メソアメリカ人が蔵書で埋め尽くされた図書館をもっていたことはわかっている。ただ、現存するのは古代マヤ人の残した冊子本「コデックス」の三冊と、アステカ人が製作した十五冊のみである。
――――
単行本p.210

 中南米の古代文明、英国、アメリカ合衆国における紙の歴史を概説します。


「第6章 言葉を量産する技術」
「第7章 芸術における衝撃」
「第8章 マインツの外から」
「第10章 印刷と宗教改革」
「第11章 レンブラントの発見」
「第14章 ディドロの約束」
――――
 いずれにせよ可動活字によ活版印刷の出現は羊皮紙と紙の競い合いを終わらせた。グーテンベルクの二百部の『聖書』のうち羊皮紙に印刷された三十五部によって、紙のほうが印刷媒体として優れていることが明白になったのだ。羊皮紙は手書きの文書や原稿を書写するための媒体であり、印刷はまさに紙のために開発された技術だった。
――――
単行本p.168

 印刷術の発明によって羊皮紙に対する紙の優位性が決定的なものとなり、さらに言葉を大量に広範囲に届けることが可能になった。さらに芸術作品にも紙が用いられるようになる。宗教、文化、芸術、科学、あらゆる場面で紙が活躍するようになってゆく様子を概説します。


「第15章 スズメバチの革新」
「第16章 多様化する使用法」
「第17章 テクノロジーの斜陽」
――――
 森林伐採がもたらす環境問題について、製紙業界は合衆国内のみならず世界的規模で圧力を受け続けている。消費者は熱帯雨林や生態学的に稀少な原生林を皆伐して作った紙を求めない。そうした紙が使われた製品を買わないように、あるいは紙を完全に避けて電子機器に切り替えるように消費者をうながすキャンペーンの成功例もある。トイレットペイパーをボイコットしようという呼びかけさえあるぐらいだ。トイレットペイパーの代用となる電子機器は今のところだれも見つけていないから、このキャンペーンは成功しそうにないけれども。
――――
単行本p.395

 それまでの繊維にかわって木材パルプを用いた製紙技術が発達するとともに、公害問題、資源問題がクローズアップされてゆく経緯を概説します。


「第18章 アジアへの回帰」
「終章  変化し続ける世界」
――――
 紀元一世紀、中国人が作りはじめた紙は、その後何世紀にもわたってアジアの特産であり続けた。やがて紙が世界の隅々にまで受け入れられるようになると、もはや紙をアジアの特産と考える人はほとんどいなくなった。だが、紙の発明から二千年が経った二十一世紀の今、中国はふたたび世界の製紙を率いるリーダーとなり、日本人は世界が認める手漉き紙の達人となっている。
――――
単行本p.410

 現在、紙の生産量世界一は中国、そして最高品質は日本の和紙である。世界中をめぐってきた紙の物語の舞台は、ふたたびアジアに戻ってきた。さて、次の時代はどうなるのだろうか。コンピュータ技術によって紙がなくなる日がやってくるのだろうか。歴史的視点から、紙の現在と未来をみつめます。



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『S坂』(森尻理恵) [読書(小説・詩)]

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 S坂を上がって地震研に通ったのはもう二十年も前の話である。その後、地震研を訪ねる機会は殆どなくなった。同級生の多くは地球科学をやめて、違う職種へ就職していったし、当時お世話になった東大の人たちも他の研究機関へ移ったりして散り散りになってしまった。
 学生時代のようにS坂を上がって行くと、地震研の古い壁と根津神社の緑はそのままで、ふと甘酸っぱい思いがよみがえってくる。昔の学生もきっと同じように、ある時は将来に悩みながら、ある時は友人と談笑しながら、この坂を上がっていったのだろう。
――――
単行本p.176


 S坂をのぼって東大地震研に通った日々。理系研究者の生活実感をしみじみやるせなく描いた研究者歌集。単行本(本阿弥書店)出版は2008年11月です。


 まず、東大地震研の様子が臨場感たっぷりに描かれているのに驚きました。個人的に、地震研と道路ひとつ隔てた東大工学部で実験に明け暮れた時期があるため、懐かしいというか何というか、どこでも同じやなあというか。


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根津駅から全ての角を左折する地震研までは足が覚えいし
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地下室へ長い階段降りてゆくぱたんぱたんと足音響かせ
――――
実験棟はいつでも何か回りいるどの部屋からもモーター音漏る
――――
足裏に長周期振動感じたり 隣の分析器動きいるらし
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測定器の前にどっかり腰おろし液晶パネルの数値を睨む
――――


 あれから数十年。ふと出会った歌集に、隣の敷地で同じように黙々と実験していた人がその体験をうたった作品が載っているのを発見するという不思議。


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今日一日このサンプルと過ごしおり熱磁化曲線描くを見つつ
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都合悪き値は赤で囲みおく どう扱うかはあとから決めむ
――――
気力そろそろ萎えて来たりき磁力計に今日六百回目のサンプルセットす
――――
蛇紋岩の磁性がわかってその先は何が出来るかと問いただされし
――――
わが論の不備を指摘し勝ち誇る男の細き指先を見る
――――


 研究所の地下でひたすら実験を続けるのもつらい生活ですが、屋外調査もそれはそれで楽ではありません。


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道端にしゃがみこんでは重力を測り測りぬ二百点ほど
――――
「何ですか」と聞かれたときに言うせりふ「国の仕事で地盤の調査」
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携帯電話の圏外表示が続く山 何も起こらず無事に抜けたし
――――
注意力がわれからぼろぼろ抜けていく運転と測定十時間続けて
――――


 地味な研究生活がいつか報われる日が来るかというと、別にそういうこともなく。


――――
これからは起業につながる研究に予算を回すと役人は言う
――――
予算とる才覚なければ頭下げ実験装置を借り歩くまで
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稼働率とランニングコストのバランスの狭間にわれはラボジプシーなり
――――
博士一人を育てるために注がるる国家予算の額を思えり
――――
たった二年雇われるために博士らが日本中から集まりて来る
――――
実験のことだけ気にするシンプルな幸福感あり忘れたくなし
――――


 同じ研究者仲間と一緒に働くのが楽しいというわけでもなく。


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にこやかに話しかけくるる人の目の奥にてわれは値踏みされおり
――――
必要なことだけ話す出張中 余所者はいつでも警戒されおり
――――
謝って欲しいんじゃないのにマニュアルの通りに頭を下げられている
――――
異動希望出してしまえばすっきりと腹痛も頭痛も治る気がする
――――
死ぬくらいなら道を替えても良かったなど正論なれど気易く言うな
――――
研究者の旬の季節は短しと過ぎてようやく理解しはじむ
――――


 やがて歳をとり、いつまでも研究生活を続けるわけにもいかず。


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苦しみて十年が過ぎ諦めてもう十年が過ぐ いま折り返し
――――
ぐずぐずと煮すぎた豆腐の角のよう昇格審査の辞退を決めたり
――――
夕焼けを帰りの電車の窓に見る かつて描きし未来は忘れた
――――
それじゃまたと別れてそれぞれの宿へ行く仕事のあとはひとりになりたい
――――
私もまだ公務員なれば世間ではいい気な人種と思われていむ
――――
「お疲れですね」と言って欲しくて五千円払い私はマッサージ受ける
――――
未来など描きしことも忘れたりあと十分でまた明日になる
――――


 そして、時の流れをしみじみと実感させる作品に涙することに。


――――
消息の途切れし幾人ふと思う 庭の辛夷の実が赤くなる
――――
残暑見舞いを出さずに九月も終わりゆく 忙しかったと今頃気づく
――――


 母親として子の成長をよんだ作品なども数多く含まれているのですが、もう個人的に、理系研究者の実感がこもった歌にノックアウトされてしまったので、そういう作品ばかり引用してしまいました。



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