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『くりかえしあらわれる火』(西元直子) [読書(小説・詩)]

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            機嫌のわるい母の声に押されて家を出たとた
んに、ロマ! と思う。黒い影の塊がゆくてに背後にうずくまっている。
走ってはいけない。走ってはいけないのだが渡された硬貨を強く握りし
め怯えおののきながらやはり全速力で走ってしまう。暗く点る街灯の下
に、川沿いのアパートメントの肌色の壁に、犬の影が大きく映しだされ
るのを見てしまわないように硬く硬く首を前方に固定して走る。ロマの
吐く息が足首にかかる。ロマがすぐ後ろにいる。
――――


 失われた小説の断章のような言葉、謎めいた物語を感じさせる情景描写。散文と韻文の境界をあっさり越えた凄味をみせる『けもの王』『巡礼』、その作者による待望の最新詩集。単行本(書肆山田)出版は2018年4月です。


――――
人の踏みしめた跡のある草地をくだってゆくと眼前に田が開け、コンク
リート製の用水路に出る。たっぷりの澄んだ水がたいへんな勢いで流れ
てゆく。丸木橋を渡って田のあぜ道に立つ。ひろがる田の景色。遠くの
山々、あちこちにくろぐろとしたかたまりを見せる杉林。つぎつぎに風
が吹いてきては稲の葉を波立たせる。
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            奥の石組みで囲われた半畳ほどの小さな池に
は体長六十センチ位の灰色の淡水魚が一匹だけいる。その大きな魚は水
のなかで静かに透明なヒレを動かしている。池のまえに魚について書か
れたパネルはない。珍しい種類ではないのかもしれない。魚がじっとこ
ちらを見ている。なんだか魚らしくない目でこちらを見ている。この魚、
ヒトのような目つきをしているな。気のせいか少し私に似ている。石組
みの上に腰かけて休みながら魚を見た。地方都市の小さな植物園のなか
のさらに小さな池のなかに名も知られずに一匹で棲んでいる魚の気持ち
を考える。私にとてもよく似た魚。また魚と目が合う。
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――――
なにか水音がしたように思った。ふと目をやると、川のなかほどの深み
を男がひとり、必死の様子で渡っているのだった。黒い髪の浅黒い顔を
した若い男が胸のあたりまで水につかりながら対岸へ渡ろうとしている。
見ると男は自分の頭よりも大きい彫像の首を抱えている。無謀だと思い、
どうなることかと気を揉んだが、危うく流されそうになりながらもなん
とか彫像の首を抱えたまま男は深みを渡りきり対岸に這いあがった。よ
ほど疲れたのか、草の上に彫像の首を放り出し、這った姿勢のまましば
らくのあいだ肩を上下させて咳きこんでいる。渡る途中で水を飲んでし
まったらしい。あの首は盗んできたものにちがいない。おそらく先ほど
の公園から盗んできたのだろう。ひと目を気にしてこっそり川を渡った
のだろう。男は咳をするのを止めのろのろと立ち上がった。そして大事
そうに彫像の首を抱えると、濡れた服のまま土手を登り灌木のなかに姿
を消した。
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――――
泉は暗い森のなかのなおいっそう暗い窪みに静かに沸きあがっていた。
水面は黒く濃く、木立からこぼれる月あかりをうけて時おりきらりきら
りと光った。足が震えた。とうとう見つけたとうとう見つけたと叫ぼう
としたが声にはならず、ただ低く、うう、というしゃがれた音が喉から
出た。あの泉は冬にも夏にも涸れることはない、だがけっして同じ場所
にはないのだ、と聞いていた。いかにして泉に近づくか、願いを持って
しまってからはずっとそのことばかりを考えて暮らしていた。結局何も
わからないままやみくもに歩いてきて、しかしとにかく泉にたどりつい
た。夢を見ているのではない、これは夢ではないのだ。這うようにして
泉に近づいた。そしてこんこんと沸きあがる暗い水面を見つめた。ここ
に違いない。間違いない。静かな確信がよろこびとともに沸きあがった。
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                        この気持ち、この
気持ちはどこから来るのか。わたしはこの世界でやるべきことを果たし
ていない。それが何なのかもわからない。何ものかがこころのなかで叫
ぶ。くり返し叫んでいる。音にならない音が響きわたり、映るまえに消
えてしまう影は見えない場所で踊りつづけている。日は沈んだ。日は沈
んでしまった。日は沈んだ、日は沈んでしまった、わたしを照らす光は
ない。こころにあった業火が消えた。願いは奪われてしまった、苦しみ
は奪われてしまった。何を願っていたのだっけ。何を願っていたのか思
い出せない。何を願っていたのか、何を願っていたのか、何を願ってい
たのか思い出せない。わたしは何を願っていたのか。
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――――
砂地であそんでいた、転がって、笑って、泣いたり、喚いたり、世界、
世界、世界、世界のながれおちる縁で、ひとりで、砂でざらついた手の
したにあった、手のなかにあった、手のそとにも、この一瞬まるごと、
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タグ:西元直子
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