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『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで』(三田一郎) [読書(サイエンス)]

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 多くの日本人にとって、不思議なことでしょう。宇宙のはじまりにはビッグバンがあり、人類は原始的な生物から進化したことは、学校でも教えられています。なのに、なぜ彼らは、そのような神の存在を本気で信じることができるのだろう、と。
 しかも、さらに不可解なことには、宇宙や物質のはじまりを研究している物理学者や、生命のはじまりを研究している生命科学者、つまり「神の仕業」とされてきたことを「科学」で説明しようとしている人たちでさえ、多くが神を信じているのです。これはもう、矛盾でしかない、と思われるのではないでしょうか。
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新書版p.16


 科学は「神」による創造を持ち出すことなく宇宙や人類の存在を説明することに成功した。しかし、科学者の多くは神を信じている。これは矛盾なのだろうか?
 理論物理学者であり、かつカトリック教会の助祭でもある著者が、信仰と科学の関係史を語る一冊。新書版(講談社)出版は2018年6月、Kindle版配信は2018年6月です。


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 国連のある調査では、過去300年間に大きな業績をあげた世界中の科学者300人のうち、8割ないし9割が神を信じていたそうです。
 これはとても不思議なことです。神を否定するかのような研究をしている人たちがなぜ、神を信じることができるのでしょうか? この素朴な疑問について考えることが、本書のテーマです。
 実は私自身も、理論物理学者として素粒子論の研究に人生の大半を捧げてきた者でありながら、カトリック教会の助祭として、神に仕える身でもあります。
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新書版p.3


 全体は、終章を含めて8つの章から構成されています。


『第1章 神とはなにか、聖書とはなにか』
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 もちろん現代のわれわれから見れば、聖書には科学的真実ではないこともたくさん書かれています。しかし、まだ自然科学というものがほとんど存在していなかった時代には、その重みは現代の私たちの想像を絶するものがあったことは確かなのです。
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新書版p.30

 まず、キリスト教の歴史をざっと振り返り、「聖書」がどのようにして成立したのか、歴史を通じてどれほど大切にされてきたのかを確認します。


『第2章 天動説と地動説――コペルニクスの神』
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 知識層の多くが神学を修めていたこの時代は、自然科学者の多くも聖職者でした。そこでは科学者と神の関係は、概して単純なものでした。すなわち科学を進歩させたのは、愛する神のことをもっと知りたいという単純な衝動でした。しかしその結果、聖書や教会の定めとの矛盾に気づいてしまうコペルニクスのようにすぐれた科学者は、信仰と研究のはざまで葛藤することにもなったわけです。
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新書版p.62

 カトリック教会の司祭でありながら地動説を唱えたことで、ルターから猛烈に非難されたコペルニクス。科学と教会の衝突がここから始まります。


『第3章 宇宙は第二の聖書である――ガリレオの神』
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〈聖書と自然はともに神の言葉から生じたもので、前者は聖霊が述べたものであり、後者は神の命令の忠実な執行者である。二つの真理が対立しあうことはありえない。したがって、必然的な証明によってわれわれが確信した自然科学的結論と一致するように、聖書の章句の真の意味を見いだすことは注釈者の任務である〉
 ヨハネ・パウロ2世は声明のなかで、このガリレオの言葉を正しいと明言しました。つまり、聖書の読み方は、科学の進歩によって変わるべきであることを教皇が認めたのです。
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新書版p.94

 ガリレオの死から350年。教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判の誤りを認め、彼の名誉を回復するとともに、自然科学の発展に合わせて聖書の解釈は変わるべきであることを明言した。聖書と科学の矛盾をめぐる葛藤の歴史を振り返ります。


『第4章 すべては方程式に――ニュートンの神』
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 人間を信じられなかったニュートンにとっては神だけが、信じるに値する絶対的な存在だったのでしょう。そして科学とは、神に一歩でも近づくための手段でした。運動方程式がいかに万物の動きを指し示そうとも、その考えは終生変わらなかったようです。
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新書版p.128

 ニュートンが完成させた運動方程式はあまりにも完璧だった。神の仕事はせいぜい宇宙に初期条件を与えることだけで、その後はすべての動きと変化が機械的に決まってしまう。では神の存在意義はどうなるのか。ニュートン個人のなかで科学と信仰は矛盾しなかったものの、科学の発展はついに神の立場を危うくするまでになったのです。


『第5章 光だけが絶対である――アインシュタインの神』
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 この世で絶対のものは光速だけであることを発見したアインシュタインは、神の居場所をとことんまで狭めました。
(中略)
 アインシュタインは、間違いなく神を信じていました。その神とは人間の姿をして教えを垂れるものではなく、自然法則を創り、それに沿って世界と人間を導くものでした。幼い頃に聖書と教会に絶望した彼はそれに代わる神を見いだし、その忠実な信奉者になったのです。
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新書版p.168、172

 科学によって次々に後退を迫られる神。その最後の居場所は、一般相対論が予言するビッグバン特異点だった。無神論者とも云われるアインシュタインにとって「神」とは何だったのでしょうか。


『第6章 世界は一つに決まらない――ボーア、ハイゼンベルク、ディラックらの神』
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 アインシュタインがなぜこれほどまでに量子力学に敵愾心を抱いたのかは、ひとつの謎ともされています。想像をたくましくすれば、幼い頃に既存の宗教と決別した彼は、みずから「世界的宗教」を標榜するほどに、彼にとっての神を築きあげていた。それを真っ向から壊しにきたものが量子力学だった、ということではないかとも思うのです。
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新書版p.220

 存在のあり方は本質的に定まっておらず、観測から切り離すことが出来ない。すなわち全知の存在はあり得ない。アインシュタインと量子力学の対立は、ある意味で神の存在をめぐる宗教論争でもあったのです。


『第7章 「はじまり」なき宇宙を求めて――ホーキングの神』
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 1983年、ホーキングとハートルは「宇宙無境界仮説」を論文にして発表しました。ホーキングはこの仮説の誕生について、こう述べています。
〈宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。宇宙はただ単に存在するのである。だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう?〉
 まさに会心の弁といえるでしょう。
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新書版p.237

 神の最後の居場所として教会から認定されたビッグバン特異点。しかし、ホーキングらの宇宙無境界仮説はそれすらも消去してしまう。宇宙から神を追放した男、ホーキングは神についてどのように考えていたのでしょうか。


『終章 最後に言っておきたいこと――私にとっての神』
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 人間には神をすべて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神により近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が湧き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、まったく矛盾しないのです。晩年のホーキングも、またディラックも、そのことに気づいていたのではないかと私は考えています。
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新書版p.263

 「科学とは、神の力を借りずに宇宙や物質のはじまりを説明するものであるはずなのに、最後には神を持ち出すのは卑怯ではないか」(新書版p.4)
 高校生から厳しく問われた著者は、この質問にどのように答えるのか。理論物理学にしてカトリック教会の助祭でもある著者が、当事者としての立場から信仰と科学の関係を語ります。



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